本質的にちくらぎ

文芸サークル「本質的にちくらぎ」のページです!

『あみめでぃあ』を書きたいひとのための文章講座

・はじめに

 はじめまして、編集長のらららぎです。


 このたびは文芸誌『あみめでぃあ』に興味を持っていただき、ありがとうございます。大変うれしいです。

 

 企画書にもある通り、私たちは概念を編んでいます。そしてそれがなにかよくわかっておりません。むしろそれが知りたくて、書き続けているのかもしれません。いちおう『あみめでぃあの目的――概念への叫び』という記事で、なにかを宣言してはおりますが、やはりよくわかってないというところなんですね。

 

 なにをやっているのかわかっていなくとも、やりたいことはわかっております。じぶんにしか書けない概念を、えいやっと書き出してみること、それをみんなでやること、みんなで読むこと、つなげてみること、結んでみること、編んでみること――糸が先だったのか、編み目が先だったのか思い出せなくなるほど、複雑なものをみんなで作り上げることです。


 そのためになにをどう書くか、そのあたりを解説しておこうと存じます。うちでお書きになるかたも、まだそうでないかたも、どうぞお付き合いくださいませ。

 

・だれにもなんにも邪魔されなければ、私が確かに言いたかったこと

ぼくはクリスティアノロナウドがすきです。クリスティアノロナウドはあしがはやくて新かんせんみたいです。ぼくのゆめはクリスティアノロナウドのようにはしっておかあさんとおとうさんをおどろかせることです。だからぼくはクリスティアノロナウドになりたいです。クリスティアノロナウドぐらいあしがはやくなればかんとくやコーチにしかられないとおもいます。

(私のやっていた作文講座で小学生が書いてきた文章・手直しなし)

 

 この文章を書いた彼は、世界中にあるもののなかで「クリスティアーノロナウドと新幹線」が最も速いと思っているそうです。おそらくこのページを読んでいるかたの全員が全員、もちろん私を含めて、彼とはおなじアイデアを持ち合わせていないことだろうと存じます。


 憧れのサッカー選手がだれよりも速くみえるのは、百歩譲って、恋の病とおなじなのでよしとしましょう(?)ですが、新幹線に限って言えば、それより速い乗り物――卑近なもので飛行機とか――を知ってしまっているがゆえに、なかなか共有できるアイデアではありませんね。


 ここで「彼が無知なだけだ」と切り捨てることも可能ですし、それ自体、なにかまちがっていることでもないでしょう。ただ、「彼は新しい物理体系で物事を考えている」と言ってもよいわけです。アインシュタインが「タイム・ディレイション」を考えたように、彼もまた、時間の体系が(彼のなかで)変わるなにかの法則を熟知しているのかもしれない。クリスティアーノロナウドと新幹線が最も速くなるような「彼なりのタイム・ディレイション」を持っているのかもしれない。


 そう思わせる書き口が、彼の非凡さでもあるわけです。


 彼の書く文章は、中学校に入学して、どんどん変化してゆきます。品のある文章を書き、どの先生からも褒められるような、いたって真面目で、年相応な知識を弁えながら、サッカー選手と鉄道の速さを同一視することなく、読者と共通の知識によりながら論を進めるようになりました。それはそれでよいです。教育の賜物です。ですが、私を興奮させた非凡さは、かき消されてゆきました。


 だからなんだ、と思われるかもしれませんが、私たちが文章で表現しようとするのであれば、非凡なほうがいいと思うのです。もちろん、いいとかわるいとかは変動するものですが、それでもわれわれは非凡なことを書くのだ、と宣言したい。


 だれにもなんにも邪魔されなかったとしたら、私がほんとうに言いたかったこと、確かに言っていたこと、それがたくさんたくさんあるはずです。知識とか、常識とか、期待とか、自意識によって、ちぢこまったことばかり書いていないだろうか。貧しい呼吸ばかりしていないだろうか。私は、表現をしたい。かつてじぶんにもあったはずの、あの非凡さを回想し、ふたたび抱きたい。


 だから、「だれにもなんにも邪魔されなかったら」という気持ちで、書いてみてほしいのです。


 あなたの原稿に対して、編集部はいろいろ言うかもしれませんが、それはぜんぶ「ほんとうに邪魔されないで書いた? 書きたいこと書けた?」という念押しの確認の意味でしかありません。編集部のことは一種の反省装置だと思ってください。採点なんてしません。正解を押し付けることもしません。もちろん文芸誌を作るうえでお願いをすることはありますが、そのときはすこしお付き合いくださいませ。

 

・最後まで書くという非凡な文体

ぼくは、アルバムをつくってお父さんや、お母さんにたい切にそだてられたいです。5時間ぐらいそだてられなかったら、生きられなかったとおもいます。

 

 これはネットで拾ってきた文章ですが、最後の「5時間ぐらいそだてられなかったら、生きられなかったとおもいます」に、異様な文体を感じます。文章自体は子どものそれなのに、この感想を盛り込んだおかげで一流の小説家が書いた長編小説のような《うねり》を感じることができるでしょう。


 このうねりは、細部を忘れなかったからこそ生まれるものだと言えます。つまり、産まれたこと全体の話ではなく、産まれたあとのたった数時間にあったであろう親の愛情、医療技術、医療制度、医師の誠意、あらゆる選択、あらゆる希望、そういう諸々を細かく詰め込んだからこそ「5時間ぐらいそだてられなかったら」ということばが出てくるのです。


 文化人類学者のレヴィ=ストロースは、新聞のコラムで「ものを書くこと」についてインタビューされ、「どんなに微細なことであったとしても、一切の細部を忘れないことが大事である」と語りました。また、おなじことを「私のなかには画家と細工師がおり、たがいに仕事を引き継ぐ」とも言い換えました。


 細かいことの細かい部分を最後まで書くことが《文体》を生みます。

 

きょうすみとくんとあきらくんであそびました。きょうは、プールであそびました。ぼくはプールのために水てっぽうをかいました。そして十一時二十九ふんぐらいにかえってきて三十ぷんぐらい遊びました。そしてつぎにインドりょうりてんでごはんをたべました。またかえってきて水てっぽうでたたかいをしました。プールがなつかしいです。

 

 これも拾ってきたものです。「十一時二十九ふんぐらい」とか、「プールがなつかしいです」とか、私には出てこないものです。これが彼の文体です。どんな小説家であっても、敬意を表するのではないかと存じます。萩原朔太郎の「猫、猫、猫、猫、猫、猫」(『猫町』)とか、橋本治の「ラーメン屋とラーメン屋と牛丼屋」(『バベルの塔』)とかと似たような感覚です。

 

 こうやって具体例ばかり挙げていても、よくわからないかもしれません。

 

 ここで、文体いうことばに立ち戻ります。文体は「スタイル/スタイラス」(style / stylus)ということばに由来しますが、基本的に先端の尖っている形状のことです。

 

 イメージしやすいように、レコード盤を思い浮かべてください。アナログレコードには、たった一本の溝が彫られています。この溝を針が辿ることによって音楽が再生されるのですが、この溝を彫る尖ったものを「スタイラス」と呼びます。

 

 (文字通り)皿の状態のレコード盤に、複雑な音のデータの《溝》を彫り込むスタイラスその溝一本で、どんな音楽でも流すことができる。それは、比喩的に言って、レコード盤に《文体》を生み出す行為だと言えるでしょう。(「スタイラス」を使ってレコード盤に溝を彫ることは「マスタリング」と言います)


 みなさんは、皿の状態の原稿用紙に、どんな溝を一本だけ彫りますか。ちゃんとマスタリングできていますか。(細かい物理学は「波の独立性」についてお調べしてもらうとして)レコード盤の溝に彫り込まれている情報は、ほんとうにほんとうに細かいものです。たった一本の溝であらゆる音を再現するわけですから、職人がマスタリングしなければならないほど細かいのです。細かいものを、最後までやるのですね。


 やっていることはシンプルかもしれません。ただ、文体を作るということは、ほんとうにほんとうに細かい作業だということです。「どんなに微細なことであったとしても、一切の細部を忘れないこと」というのは、レコードの、あの溝を、あなたが彫るために必要な態度なのかもしれません。

 

・ことばにするということ

よう虫はきらいです。なぜかというときもちわるいからきらいです。なんできもちがわるいかというと、ふんをするときのうごきが、きもちわるいからです。わたしは、ちょうちょになっても、とんで、つかまえようとしたら、すぐとんでいってびびるからです。なんで、びびるかというと、うごきがはやいからです。でも、びびらないように、できるようになりたいです。がんばりたいです。

 

 こちらも拾ってきました。「ふんをするときのうごき」とか、「びびる」とか、「びびらないように、できるようになりたい」とか、じぶんの感覚をことばにしようと振り絞っている様子が伝わります。ふんをするときの動きが気持ち悪いとか言いながら、それを表現するために、ちゃんと見ているんですね。見なきゃいいのに、でも「あの動きが気持ち悪いんだ!」と言いたいから、見ている。


 また「びびる」というのは、平安時代の和語で、軍が動き出し、鎧がぶつかり、びんびんという音を立てたところからきたことばです。この子にとって「驚く」(馬が急にかしこまって緊張する様子からきた動詞)でもなく、「びくつく/びっくりする」(驚いたときの擬態語からきた動詞)でもなく、「取り乱す」でも「愕然とする」でも「面食らう」でも「度肝を抜く」でも「声を失う」でも「気をのまれる」でも「肝をつぶす」でも「ハッとする」でもなく、「音が由来の動詞」を使わなくてはいけなかったのだと思います。


 つまり、こっそり蝶々に近づき、いざという瞬間の、ほんとうに一瞬の驚くべきできごとがあり、どうしてか気づかれ、すばやく飛び去ってしまうことへの「あっ!(わっ!)」という音を伴った感動あるいは動揺が、「びびる」という表現から自然と理解できます。

 

 「驚いた」なんて冷静な説明ではないんです。「びっくりした」という状態の現像ではないんです。「びび」という音に託さねばならない「わっ!」があったのだと思います。だからこそ次は、驚いてもいい、びっくりしてもいい、だけど「びびらない」ようになりたい、がんばりたいという気持ちなんですね。


 もしかしたらこれは大誤算の過剰な深読みかもしれませんが、これぐらい読みたくなる表現が、この子にはあったということでもあります。すくなくとも「びびるってなんだよ」って思ったのではないかと存じます。ついついそう言わせてしまう「表現」を、私たちは取り出してゆきたい。

 

(……)but the body is also the body from the inside. And then they're getting there slowly but they're still with emotions. Slowly they're beginning to understand that an emotion isn't just what they'd thought it was. It actually has something to do with the situation you're living in."

(訳)しかし、身体というのもまた内側(内臓的経験)を基にしているものである。ゆっくりとそこにたどり着こうとするが、しかしまず感情というものを感じるだろう。そしてようやく感情というものが、自分たちのイメージしていたものとは全く異なることに気付き始めるものだ。感情の実際というものは、状況を生きているなにかなのである

 

 哲学者ユージン・ジェンドリンは、心地とよべる感情を「状況を生きているなにか」と言いました。私たちは、これを感じ取らねばならないのです。驚くじゃなくて、びっくりじゃなくて、びびる、ということばを選び、「蝶々に逃げられたあのときの心地」を託すために、そのときそのときの状況を生きている「なにか」に気づかなくてはなりません。この「なにか」のことを、ユージン・ジェンドリンは「フェルトセンス」と名付けました。


 心地というのは、「いい感じ」とか「やな感じ」といった簡単なものではなく、もっと豊かで、もっと複雑な感覚のことを言うそうです。彼は「なんだかもやもやしていて、不明瞭で、名状し難いなにかを内臓で経験すること」と説明します。


 むずかしいことを言っているかもしれませんが、「なんとも言えないあの感じ」がことばになってやってくるまでじぶんの内側で待つということです。


 つまり、「あーこの感覚、なんて言えばいいんだろう」という経験。喉に骨がひっかかって、むかむかして、無性にいらいらして、腹を抉られるような経験がことばになるまで待つ。もし待てなければ、ほとんどの場合、唾液が骨を溶かしてしまい、気にならなくなって、なんともなかった顔で日常を過ごすことになります。それが大人の忙しい世界かもしれません。それでも私たちは、待つのです。時間が経てば忘れることができるからといって、時間のほうに向かって放り投げてはならないのです。「内蔵」で保全しておき、いつか、フェルトセンスをことばにするのです。


 それが、この子にとっては「びびる」だったのだと、私は思います。この子の「心地」は、このことばを選んだのです。生理的だったはずの感覚(「わっ!」)を、社会的なことば(「私は驚きました」)に置き換えないで、きちんと生理性を保って「びびる」に留める、「びびる」を選ぶ、「びびる」に託すことができたからこそ、この文章は私の心に残ったし、素晴らしい!

 

 山崎浩一が「《ゆがみ》こそが、その人にとっての『均整』なのだ」と言ってみせたように、いちいちバランスをとろうと思わなくていい、いちいち公約数的なことばを選ばなくていい、どんなに通分しても通分不可能な《ゆがみ》を捉え切って、表現してほしいと思うのです。

 

・まとめ

 むずかしいことを言ったかもしれません。


 でもたぶん、むずかしくないことです。


 大事なのは、「これがいい文章だ」と教わってきたことを、すべて忘却(unlearning)すること。

 

「文章(センテンス)は短いほうが良い」――忘却。
「結論を先に書いた方が良い」――忘却。
「わかりやすい具体例が良い」――忘却。
「引用は必要なときだけにするが良い」――忘却。
「読みやすい文章が良い」――そんなのすべて忘却だ!

 

 文章に関する「教科的な内容」は忘れて、あえて学び外して、もういちどじぶんの表現、じぶんの文章、じぶんの文体に目を向けてみることが肝心なのだと思います。


 やっぱりそれはむずかしいことかもしれません。でもやっぱりむずかしくないかも。うーん、どっちだと思います?


 いろいろ考えながら、悩みながら、いい原稿をつくっていただけたらと思います。そのためのお手伝いを、編集部総出でやります。私たちにはその準備があります。なんでも聞いてください。相談してください。意見が合わないことのほうが多いと存じますが、それでも一緒につくってくれたらうれしいです。


 最後にもうひとつ、私の好きな文章を引用して終わりにしますね。

 

あのね、うしがいたよ。よかったよ。

 

 

――――『あみめでぃあ』編集長・らららぎより