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本質的にちくらぎ

文芸サークル「本質的にちくらぎ」のページです!

誌長まえがき完成&全文公開――「『おなじ』と『ちがう』のあいだ――わけのわからないところで止まること」(L)

 こんばんは。編集のらららぎ(@lalalgi_chatte)です。誌長ちくわ先生のまえがき原稿が届いたので、全文公開いたします。

 

 

まえがき「おなじ」と「ちがう」のあいだ――わけのわからないところで止まること(ちくわ)

 

誰かと話をしたり、書いたものを読み合ったりするのは、とってもむずかしいものだ。それというのも、私たちが「おなじ」と「ちがう」という素朴な武器しか手にしていないからかもしれない。

「それってけっきょくあれのことでしょ、二番煎じなんでしょ」と話を聞かないこと(「ぜんぶおなじだよね!」)と、「なんのことかさっぱりわかんねえや、お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」と話を聞かないこと(「ぜんぶちがうよね!」)――その両極端のあいだに私たちは立っている。

誰かの話を呑みこめないことはつらく、さみしい。誰かに話を聞いてもらえないこともつらく、さみしい。私たちはそのさみしさに耐えかねて、「おなじ」と「ちがう」のあいだを乱暴に往復する。やけになって開き直りたくなることもあるだろう。あれとこれの「おなじ」にならなさに絶望して、「ちがう」にすべてを任せたくなったり。あれとこれの「ちがう」ところ探しの馬鹿らしさに屈して、「おなじ」に頼りっきりでいたくなったり。

でもダメだ、それじゃダメなんだ。どっちに向かったって、端までつっこんだら私たちの悲しみは深まっていくだけだ。じゃあどうする。「ブレーキをかける」しかない。

「おなじ」と「ちがう」に挟まれた、なんの標識もない不安定なところ、「えっ、ここで止まるの?」とみんなが首をかしげてしまうようなところに緊急停車して、もう一度話を聞いてもらえるよう頼みこむんだ。もう一度、相手のことばに耳を傾けるんだ。なかなかうまくはいかないだろう。それはそうだ、どこに止まればいいか、わかりゃしないんだもの。だけど、「おなじ」でもなく「ちがう」でもない、中途半端でヘンテコリンな場所に立ち止まってみないかぎり、私たちは誰とも話ができない。

うん、そうか? そうなのか? そんな声も聞こえてくる。いや、もしかしたら本当に「ぜんぶおなじ!」かもしれないじゃないかって? あるいは本当に「ぜんぶちがう!」かもしれないじゃないかって? そうだねえ、それをロジカルに否定することは誰にもできないだろう。だけどやっぱり私は、そう開き直るのではなく、中途半端なところに止まった「ほうがいい」ように思えてならない。いや、止まりたいと思う。

なぜって、私たちは――生きているからだ!


生きているってことは、なぜかいまここに生きているってことだ。1000年前でも、1000年後でもなく、なぜかいま生きている。どこか別の地ではなく、ここに生きていて、なぜかこの本のこのページを読んでいる。それってやばくないか。そしてなによりやばいのは、なぜかいま生きているということは、いつか死ぬということだ(どう考えてもやばい!)。

つまり、手短にいって、私たちには意味不明な足枷があって(なぜかいまここにいて)、意味不明なタイムリミットがある(なぜかいつか死ぬ)。世界の終焉は見届けられないし、攻略本で答え合わせはできない。100年後に開発される超最強のコンピュータだとか、別の世界線にいたかもしれない超天才だとかが、世界の秘密を解き明かすのなんて待ってられないのだ。だったら、私はあなたとおしゃべりするしかない。

もちろん、あなたは私となんかしゃべりたくないかもしれないし、いうまでもなく、じっさいに私(という特定の一個人)とはしゃべらなくてもいい。けれど少なくとも、あなたはあなたがいない双子宇宙には飛べないし、あなたがいない遠い時代にも飛べない。

あなたはこのかぎられた<時-空>の中で「今日の答え」や「明日の答え」を提出することしか許されない。たまには白紙解答でもいいよ、だけど死ぬまで白紙解答を続けるのだろうか。死んだって、誰も答えを教えてくれるわけじゃないんだぜ。

あほらしいかもしれないけれど、だから私は中途半端に生きていきたいと思う。一日一日、「おなじ」と「ちがう」に挟まれた意味不明な中間地点を探しにいって、そこで誰かと話ができるか試したい。今日がダメなら、明日はまた別の場所で、そうやって「時間のあるかぎり」。



この本は「概念」を編む文芸誌なのに、いっこうに「概念」の話が出てこない、と思われているかもしれない。たとえば、その「中途半端な場所」のひとつひとつが、「概念」だったり、「概念のつながり」だったりするんだ。

「読書会」って堅苦しそう、「家事」ってめんどくさいよね、「ナンパ」とかキモい、「政治」はお偉いさんがやってるやつ。私たちはそうやってもなんでもかんでも勝手に「おなじ」にして、よく知らない「ちがう」ものとして遠くに置くことがある。そこに「ちょっと待った!」と割って入るのが『あみめでぃあ』で、もっとその「あいだ」を探してみようぜ、とお節介をいう文芸誌だということだ。概念を投げ合って離れていくのではなく、概念を介してつながっていく、そういうことを私たちは目指している。

たしかにあなたは「自傷」なんてしたことなくて、「家出」は隣のなんとかちゃんの話で、「スポーツカー」には興味ゼロで、「法」や「教育」ってむずかしいだけだと思っているかもしれない。だけど、だけど、そうじゃないんだ。誰かが「自傷」とか「家出」とか「スポーツカー」の話をしているとき、それはあなたが「おなじ」と「ちがう」で倉庫の奥に押しこんだものじゃなくって、あなたがしょっちゅう考えている――だけどたまたまその呼び方をしていなかった――もののことなのかもしれない。知ってるつもりのそれとは少し「ちがう」ものかもしれなくて、知らないとはいえない程度に「おなじ」ものかもしれない。

みんなで概念を持ち寄って、今日はどこにブレーキをかけるかって考えよう。そこにまた新たな概念が姿を現す。あなたが野球をしたくて、私がサッカーボールしか持っていなかったとしても、子どものころならきっとキックベースをしただろう。そういう、ごくごくありふれた、「概念と概念のあいだ」――この本を読み進めながら、そういうものをあなたにも探してほしい。


さて、前置きはこのくらいにして、そろそろ旅をはじめよう。私たちも勝手気ままに止まるけど、あなたもブレーキをかけたくなったら止めてほしい。フライングで止まったり、止まり損ねたりして、意味不明なところで停車して、理不尽に途中下車させられて、そこにあるものを探しに探して、そこから見える風景のことをしゃべり尽くしたら、また次の概念を目指そう。

それでは、出発。
急ブレーキをかける運転手もいるから、シートベルトは忘れずに。