本質的にちくらぎ

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概念語り、どうやるの(1)『vol.1』の三編を解説してゆきます(L)

 本誌はいつも新規の著者(寄稿者)様に恵まれているおかげで、休刊することなく楽しい同人誌を創ることができております。ありがとうございます。

 

 ほとんどの場合は編集(@lalalagi_chatte)や誌長(@_chikuwa_)がキャスティングするのですが、そのとき『概念語りしてください』みたいなことしかお伝えすることができていないのですよね。すみません。

 

 さすがに不誠実すぎるかな、ということで編集らららぎのほうから、少しだけ説明をしようと思います。どうかご参加するときの参考にしてください。

 

 また、ここで分析することは「一例」(伝統の一部)でしかなく、則ってやる必要は全くありません。むしろ面白ければなんでもいいんです。テキスト系の同人誌なので、さすが何文字かテキストをいれてほしいのですが、とにかく面白ければそれだけでテーマなんかどうでもよくなると思います。

 

 それではこれより本作「vol.1」から三つ、「vol.2」から三つを出して、みなさんがどのような「書きかた」をしているのか解説してゆきますね。今回は「vol.1」の三編『約束とは、前向きに未来を見ていたという記念である』『大人たん的に考えて』『@各位 ラブやで』を解説してゆきます。書き口となる部分は太字にしてあるので、そこを注意しながら見ていただけたらと思います。

 

*約束とは、前向きに未来を見ていたという記念である  著者:ちくわ

 

 著者のちくわ先生は、「約束」という日常語に着目します。約束というと、なんかどうしてもよくなかったことばかりが思い出されて、もう約束するのさえ嫌になる――そういう印象を抱いていたけれど、とある数学書のなかに書かれていたことばを受けて、もっとポジティブに扱える概念なのではないかと考え始めるのですね。

 

 ネガティブに見たときの「約束」というのは、「裏切り」や「期待はずれ」だったわけですが、ポジティブに見たときの正体は〈記念〉なのではないか、と語りかけます。でも数多くのひとは「約束の正体は実は記念でした」と言われて、「ですよねー!」「わかるー!記念だよね」となるわけではありません。ゆえにさらなる説明を試みるのですが、ここからがもっと面白い。

 

 記念というのはなにかというと、「なにかを感じていた一瞬一瞬を残すこと」だと先生は仰ります。なにかを感じた一瞬の風速あるいは勢いといったもの、その想いを速度的に実現させる行為が記念なのですね。まずはこのように、正体がなんであるかをじぶんのことばで説明してゆくわけです。できるだけ柔軟に、できるだけ届くように。だけど、わかりやすく割り切らないように、ややウェットなことばに載せて読ませます。

 

 そして、前半部(約束の正体に関する説明部分)が極まったとき、先生の思想が如実に現れている文章が飛び出てきます。

 

約束が最終的に果たされたかどうかは、大きな問題ではないのです。

 

 すごい! 約束の実際的な成否なんて大したことないぞ、と。なかなかこんなこと言えたものではありません。あえて悪く言えば「不誠実」なことを言っているわけですから。しかし、彼の読者はおそらくこの考えを「思想」として認識すると思います。それぐらい盛りだくさんの語りが尽くされているわけです。そしてじぶんの思想と戦わせたり、あるいはその思想性に感心したり、驚いたりすることでしょう。

 

 概念語りというのは、それが「語り」である以上、なにかの感想では足りなくて、なにかの分析ではおかしくて、なにかの説明では乾燥しすぎているのです。その著者の経験から染み出てくるテイストのようなものを、ぜひテキストに載せてもらいたいと思います。「大事なのは約束の成功や失敗じゃなくて、そうじゃなくて、その一瞬一瞬によって私たちが先を生きてきたということなんだよ!」と訴えるなにかがほしいのですね。

 

 そういう意味では、概念語りの手本のような文章が本誌『あみめでぃあ』の先頭に置かれていたわけです。もちろん、繰り返しになりますが、手本をまねることが目的ではありませんので、「はは〜ん、こういう感じね」と要領だけかっさらって行ってもらいたいですね。

 

 さて、ちくわ先生の語りは後半に入ります。つぎは「目標」という概念を反対側において、「約束」について対照的に考えなおしてゆきます

 

 このように「じぶんで独自の対立項を生みだす」ことは、概念を語るうえでとても重要なことです。たとえば前期ハイデガーなら有名な「存在と時間」がありますね。存在とはなんだろうと考えるときに、時間という独特な意味合いを含ませた概念を持ってくるわけです。「存在の反対は時間だよー」なんて辞書には載っておりませんが、それでもハイデガーにとっての「存在」というのは、あくまで(ハイデガーにとっての)「時間」という概念から照射したときに理解できるもので、それなくしては成り立たないぐらいの大事なものだと言えます。

 

 先生の著した文章にも「目標と約束」という章があります。目標という概念から逆照射してみると、約束という概念の面白い面が見えるよ、という新境地へのいざない、というわけですから、ここはとても重要なポイントとなるでしょう。

 

 さて、目標というのはそれ自体が固定的で、ずっと満たされないものだと仰ります。それゆえ果たせなかったときに消滅を免れないので、とても寂しいものなのですね。未来が変化しないという前提から現在を確定させることが「目標」ならば、それは変化に対して弱いことを意味する――そう暴いてみせます。

 

 それに対して、約束はじぶんとの約束なのです。いつだって不確かな未来に向かって、ゆれながら、たゆみながら「重ねてゆく」ものであり、たとえそれが変更されても過去を否定することにはつながらないと断言します。

 

  その後に、おわりのことばが入って一丁上がり、といった感じになりますね。どうでしょう。「約束に関心をいだいてこれまでとは違う見方をして、正体を見ぬいて、別の重要な概念から逆照射した」と言うのは簡単なのですが、まあやっているのはこれだけです。途中の具体例や言い回し、ロジックやレトリック、構成や引用や注釈も見事なものですが、それらはなくても構わないものです。いわゆる「副次的」なものであり、ほとんどが「娯楽」の範疇である言えます。

 

 それよりも、「約束ってこうなんだよ」「そうじゃなくて、こうじゃなくて、こうでもなくて、えっとすなわちこうなんだけど、言い切れないなにかがそれなんだ」という気持ちが自由に放出されていてほしいのです。逆にそうでなければゴーサインは出ません。

 

*大人たん的に考えて――"Otonatanically" 著者:大人たん

 

 学術たんのなかでこっそり「異端」を自負している大人たんの概念語りです。もちろん扱うのは「大人」という概念について。

 

 さきほどの「目標と記念」のように、いきなり「大人と子ども」をぶつけてきます。ただこの対立項は使い古されているため、読者としては判断しなければなりません――ありきたりな大人・子ども論を展開するのか、それともなにか刺激的なことを言ってくれるのか、出し惜しみなしの(ある意味で無配慮な)始まりかたです。

 

 内容で言えば、冒頭に歌詞をもってきて、それを分析し始めます。「はやく大人になりたいの」「子どもって楽しいじゃない」――彼女たちの歌う大人や子どもとは一体なんであるか、補助動詞のニュアンスから読み解く分析です。

 

 子どもは世界をある種の希望的な意味合いで割り切ろうとするけれど、大人は諦めのなかで二分化することを避けることができる、と仰ります。わかったようなわからないような誠に微妙な説明を前に、ついつい先を読んでしまいたくなる。

 

 と、思って先を読んでみると、議論が後退して「前に進む」とか「先へ行く」とか「上にあがる」という比喩についての考察が始まります。この位置に関する比喩の強調が、次の「成熟」という概念につながってゆくのですね。「大人と子ども」の照射はフェイクで、ここで「大人と成熟」という、これまた使い古された対立を語ります。

 

 ここで「成熟というのは善いこととして思われるけれど、ここんところ〈資格〉としての成熟しか興味を持たれてないよね。でもそれって大人っていうのがどんどん曖昧になってるからじゃないの」と問題提起します。かなり社会的な切り口が出てきました。

 

「こうしたければ、こうしなければならない」という仮言命法によって、私たちは条件的な存在として小粒に分割されていき、もはやアイデンティティを有することにさえ、他者から出された条件を参照するようになってしまっています。

 

 普通に耳が痛いことが明かされ、成熟という概念の根源である「深さ」という比喩に迫ってゆきます。「深いって言うけど、じゃあ深いってなに、それが大人とどう関係しているの」というこれまた先を読ませようとする展開です。

 

 ここから「人間と動物」が対照的に語られ、そこから「子どもの学び」について話が延びてゆきます。子どもの話から「発達」という概念について触れ、その概念をやり玉にあげて「そもそも子どもから大人って〈発達〉って言うほど一方通行なんだっけ」と再度、問題を出し直します。結論がなかなか出ないのに、読者は問題だけを次々と提出されるがまま、しかしそれが小気味よくもあり、もどかしくもあり、気づけばじぶんなりに結論を出そうとしてしまっているじぶんがいます。

 

 ここからはハイデガーやエンデを援用しながら「大人と時間」という項目に切り替えて話が進みます。一筋縄ではいかない概念であるということを、一筋縄ではいかない文章スタイルで示しているのでしょう。

 

 さらに「じぶんに固有なもの」と「共同体的なもの」という対立項に移動し、そもそも意思ってじぶん固有だっけ、という議論に戻ります。ここまで議論は戻りっぱなしです。

 

 次に「豊かさと快楽」の話から、「大人と責任」の話に替わります。その後は「家族としつけ」の話を挟んで、最後の章「大人というひとつの奇妙な情熱」に入ります。

 

(…)そのよるべない存在が、どこかのタイミングで自分の存在を賭けてもよいと思える世界の美しさに出会うこと、そしてそれが真実なのだと好意的に誤解することで自分の存在を深く理解し、いつか頼れるもの=成熟したものに変容してゆくその様が、大人になるという変化そのものなのかもしれません。大人というのは、ひとつの奇妙な情熱である、といえるでしょう。

 

 このような定義(?)で締めました。そして後書きで「どのようなことを書きたかったのか」を言い訳し、終わります。このように断想スタイルで結論を置き去りにしながら、概念とその問題についてひたすら記述してゆき、あわよくば読者に考えさせる方法もあります。

 

 *「@各位 ラブやで〜」著者:寝返りレタス

 

 「ラブやで」というオリジナルの概念について語ります。オリジナルの概念を布教する、と言ったほうが正確かもしれません。みなさんもじぶんにしかない概念があると思います。それを絞り出してみると、それだけで面白いものになりますよ。ちなみに私はコード類が「がちゃつく」と友だちに言われたとき、なんだよその理解の仕方すげえなあって思いました。「ぐちゃぐちゃになっている」とか「からまっている」という状態動詞ではなく、「がちゃつく」という自動詞で理解するわけです。 面白い。

 

お母さんに寄り添われ、柔らかい毛布にくるまて、ゆっくりとまどろんだ、優しい記憶。今はもう遠く、しかし確かに経験したあの体温は、いま私のなかに「ラブ」として、確実に息づいております。

 

 詩的というか、散文詩的に始まる語り。まさに「語り」じゃないかということです。しかも謎の概念「ラブ」をいきなり提出してくる出し惜しみのないパターンです。

 

 語りをほどほどに終え、誰もが気になる「愛という概念との違い」について説明してくれます。先回りしている感じがしていいですね。愛は重たいけれど、ラブは鈍くさいけれど身軽でちょうどいいという感じの説明があります。直感的でわかりやすい説明を心がけているように感じますね。

 

 次の章では「そもそも」という前提に関する説明があります。ラブというのは、なるほど手続き不要の「姿勢」や「心構え」のことで、それは母親の体温のようなものだという絶大な比喩を提案します。とにかく飾らずに温かい気持ちを伝えるのにもってこいの概念なんだと強調するわけですね。論旨が明快で、受け容れやすいです。

 

 さらに話が進んで「装置」であるというポストモダン的な比喩が飛び出ます。不都合なことにも向き合える、理解できないものを決めつけない、そういう穏やかな装置であるというわけですね。思っていた以上に強力なものなのだ、ということを読者は改めて知らされるわけです。

 

それはどこか、理解を助けるというよりも、理解するという行動そのものを包み込んでいるようなものです。

 

 装置というのはあくまでもイメージによる比喩で、やはりそれは「AにBをさせる」ようなものではなく、むしろ包み込むものであるという思想が見られます。

 

 ここからは具体例が出てきて、そのあと「プライド」という概念を対立項に用意します。プライドから逆照射してラブという概念を理解しようということですね。

 

 プライドというのは足が早くて、私たちの修正よりも先に動いて侵食するものだけれど、ラブという姿勢があれば大丈夫だ、それはもっと強力なものだから、という説明が続きます。プライドは二次派生的な気分だが、ラブは根本的な姿勢だから、そっちのほうが速いんだ、という直感的な区分に納得がいきます。

 

 ここから再び「装置として」考えてまずは使ってみよう、という提案が始まり、國分功一郎などを引用しながら印象的な思い出話が続きます。アーティストのライブのような「みんなも一緒に〜」という話があり、盛り上がって終わります。

 

 読んでいて伝えたいことがよくわかるクリアな文章なので、いちばん楽しく読めるのではないかと存じます。正直に書いてゆくスタイルは、とても難しいですが、いちばん心に訴えることができるのでチャレンジしてみるとよいかもしれませんね。

 

 さて、『vol.1』の三つを見て参りましたが、なんとなくニュアンスがつかめたと思います。要するに書くしかないわけですが、それがとても自由に、なんでもよくて、最終的に結論を書かなくてもよくて、率直でよくて、お手本通りでよくて、とにかく書くことが大事なんだということを改めて理解していただけたら嬉しいです。

 

 あとは、われわれがどのような文芸誌を創ろうとしているのか、すこしだけでよいので知っておいてくださると助かります。

 

 きっと同じ気持ちを誰しもが抱いていると思うのですね。概念、なんだこれは、と――。犬というひとことで、柴犬も、ヨークシャテリアも、犬の真似をしている酔っぱらいのおじさんも、すべて理解できたような気がします。あの「犬」というのは、その概念は、いったいなんだろう、ということです。それをひたすら語りのなかに見出そうとする集団です。

 

 もし気が向いたら、寄稿からはじめて、メンバーになってくれると嬉しいです。