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本質的にちくらぎ

文芸サークル「本質的にちくらぎ」のページです!

テキスト系同人誌(文章系同人誌)のレビュー企画|第三号――NEKOPLA斎藤『日常想像研究所2』

どうでもいい疑問を、適当に考える。
――キャッチコピー 

 

 今回は大手個人サークル「NEKOPLA斎藤」(@kawausokawauso)さんの、『日常想像研究所2』をとりあげたいと思います。勉強になるところが多く、読んでいて楽しいです。

 

※本稿に書かれていることは「らららぎ」個人による感想の域を越えず、本サークル『本質的にちくらぎ』とは関係ありません。

 

購入動機と星型レビュー

【購入動機】
(1)表紙がかわいい
(2)目次が見やすい
(3)いきなり出し惜しみなしで面白い
(ここまで約20秒かからず即購入――たしか400円)

 

【評価】
装丁:☆☆☆☆
用紙:☆☆☆☆☆  *淡クリームキンマリと思われる用紙、最高です。
編集:☆☆☆☆
図表:☆☆☆☆
校正:☆
目次:☆☆☆☆   *個人誌ならではの抜群の見やすさです。
本文:☆☆☆☆   *機構的な感じがいやらしくなく素敵です。
ミニ:☆☆☆
後書:☆☆
奥付:☆☆☆

 

ポストの時刻表

鉄道時刻表からは列車の運行が想像できるのと同様に、ポストの時刻表からは取集車の動きが想像できる。それに何の意味があるのかは分からない。ただ、我々の知らないところで、取集車は毎日決まった時間に運行しているのだ。時刻表どおりにポスト(駅)を巡って、郵便物(乗客)を載せているのである。その素性を知りたいとは思わないだろうか?(p.6)  

 

 サイトの「誰なんだお前は」を読んだら、「JR全線完乗者」と書いてあり、ただものではないと思っていたのですが、ここで「取集車」と表記するところにただならぬ気迫を感じます。読みかたは「しゅうしゅう-しゃ」です。

 

ただ、地域によっては律儀に「一分単位」で時刻が書かれているところもあった。感動的である。そんなに正確に書いちゃって大丈夫なんだろうか。(p.7-8) 

 

 なんて面白い世界なんでしょう…。やばいです。はまりそうです。はまりそうなので早速「ポストマップ」というサイトを見に行ったら、これがまだ煩雑ながら面白いのです。くだんの一分単位の時刻表の話が出ているところをピックアップしましょう。

 

残りわずかの未発見ポストを発見すべく、取集車を追いかけた経験のある方もいらっしゃると思います。そこで適当な場所のポスト付近で張り込んでいるのですが、取集車が時間通りにくるためしがありません。10分単位で表示している支店で「13:30」ならば、13:25~13:35に来るはずだと思うでしょう。ところが、たいていの場合10分以上遅れてくる。支店出発の時刻はだいたい決まっているはずだから、そもそも取集作業をしながら回るために組まれたダイヤではないのだろうか。あくまでも取集時刻は目安だし、バスの通過時刻と違ってじっと待っている必要はないから実用面では差し支えないのかもしれない。でも、30分以上の遅れが常態化しているような取集ダイヤは無理があるといってもいいだろう。まして1分単位で取集時刻を表記している支店は、その時刻の根拠が知りたいものである。「ある日の取集時刻」を記録してそのまま取集時刻としているにしては無理があるように感じます。交通事情による遅延があまりなさそうな天気のよい平日の午前中などを狙って「実際の取集時刻」を調べてみると面白そうに思う。最初から追っかけていると不審がられるので、5か所程度ごとに先回りしつつやってみると傾向が分かりそうだ。――みかちゅう「なぜ取集車は時刻どおりにこない」 (2008)

 

市原局は5区の取集コースがあります。取集時刻表に26年7月18日改正された掲示がありました。市原局は隣の姉崎局を調査の機会に、何ヵ所か周りいずれも取集時刻が変更され、ポスト番号が変更され、取集コースが組み変えされてるポストもありました。特徴は1分単位で取集時刻が設定されています。コンビニポストにもポスト番号が記載されています。おそらく、他のポストも取集時刻・ポスト番号が変更されているかと思います。後もう一つ、取集時刻表にあるポスト番号は「1区-10」と感じで掲示されているのですがポストマップに編集されている市原局のポスト番号は「1-10」とか「1区-10」と編集されているのが混在しています。割合的には「1-10」て編集されてる方が多いです。意味合い的にどちらでも、同じなんですが・・・・・。個人的には、統一した方がいいかなと思うのですがどうでしょうか? 年明けから、合間みながら周る予定なので、現地調査したポストから、実際に掲示されている「1区-10」と感じ編集したいと思います。改正が去年なので、取集時刻表が剥がれてなければいいけどどうやら。年明けから周る予定でしたが、千葉/八千代局(掲示更新されポスト番号が6桁表示に)を先に周りたいと思います。――hiroaki32694「千葉県/市原郵便局・取集時刻改正」(2015) 

 

 他にも、地元のポストを検索したら、もう既になくなってしまったコンビニなどの写真も出てきて、かなり懐かしくなりました。ポストは駅である、という斎藤さんの比喩は比喩を越え出し、「ステーションとしての郵便ポスト」という場所論が展開できそうです。


【校正要素】
・「時刻表どおり」「先にも書いた通り」「その名の通り」
・「隣接しているをポストを見ても」脱字


ねるねるねるね」を悪くする

 谷川俊太郎とのコラボがあり、そこからフーリエ変換ならぬサイバー変換(サイバー菓子変換)があって、面白かったです。ポストがすごかっただけに、あっさりしていて「あ、それだけか」という感じはありました。

 

【校正要素】
・「もはや商品名なのか何なのか分からない単語も交じっていて、なんとも言えない気分になる」まちがいではないが名詞と副詞の『何』
・「文字列をじっと見つめていると」「多くみられる」


郵便次元について想う

 ユニークな世界設定に、面白いと思いました。デリダの『絵葉書』が好きなので、こういう話かなり好きです。

 

【校正要素】
・「この所在ない気持ちに整理を付ける」整理がつくの変形?(整理もつかず所在ない気持ちをどうにかするため)
・「所在ない気持ち」言いたいことはわかりますが、退屈で暇(手持ち無沙汰)ということです。
・「例にみてみよう」「見つかる」
・「私たち」「我々」
・「郵便次元について想う」「郵便物に、思いを馳せてみる」

 

押し入れと引き出しの関係

 いわゆる架空対義語をいくつか並べる感じです。

よって、厳密には東西線の反対は「北北東南南西線」かもしれない。さらに突き詰めると、「北北東微北南南西微南線」かもしれないのだ。「次は~大手町~、北北東微北南南西微南線は乗り換えです」、そんなアナウンスが聞こえてくる日も近い。(p.28)

 

 他のはあまり面白くありませんでしたが、これはかなりユニークでした。

 

いま底にあるかご

実は日常スタックが持つ問題は、地球上に住む全人類が一致団結して取り組まねばならない、世界共通の課題なのではないか。各スーパーが店内で独自のルールを作っているかもしれないけれど、そんなややこしいことをせずに、世界規模で新手法の研究開発に取り組むべきなのである。(p.33) 

 

 褒め言葉として受け取ってもらいたいのですが、すごくアホで感動しました。日常的なスタック構造をローカルな問題として認めるのではなく、グローバルな課題として取り組もうとする大きな姿勢に、ただただ胸を打たれました。

 

【校正要素】
・「ただいまキンドル版を絶賛発売中」間違いではありませんが『いま』と『中』で重複していて違和感があります

 

本屋の重さ

本屋に行くといつも考えるのは、「この本屋は一体どれくらい重いのだろう」ということだ。(p.35)


このように本屋とは、重さを詰め込んだ箱なのである。(p.36) 

 

待ち合わせのときに(以下略)

 

 いろんなひとがいるなあ、という感じです。


家に帰るための制御

 私もよく考えることで、似ているグラフを描くので、クスっとしました。

 

日常ゲーム

 風呂のゲームはクソつまらなそうで最高でした。プログラミングを覚えたときの気持ち、とてもよくわかります。


**********

 

 同人誌らしいというか、こういうひとはまだまだたくさんいるんだから、どんどん発表してほしい、という感じです。日常に停止ボタンを押して、ここってどうなってるのかな、と機構的に思考をめぐらす人物が、もっと出てくれば嬉しいです。斎藤さんはプログラミングをやるかたで、そういう機構的思考がナチュラルにできて、それが日常を切り取るときのよい切り口になっているなと感じました。情報系にせよ、テキストコラム系にせよ、続刊、期待しております。

テキスト系同人誌(文章系同人誌)のレビュー企画|第二号――さきがけ文学会『蘖―ひこばえ―』第四号(通巻第七号)

活字はここまで面白い!
――さきがけ文学会サイトヘッダー説明文より 

 

ありのままの感性を用いて創作活動を楽しむ。
文芸は言語表現であることを忘れない。
常に新しい発想に挑戦する。
個人が輝ける作品を目指す。
――さきがけ文学会「基本理念」より 

 

 本日とりあげる同人誌は「さきがけ文学会」(@sakigake_japan)が毎年1月に頒布している副冊子「蘖―ひこばえ―」の第四号(通巻第七号)です。7月に頒布している機関誌「さきがけ」の副冊子という位置づけのようですが、個人的には「蘖―ひこばえ―」のほうが好きで、こちらをレビューしようと思いました。「文芸のゴミ箱」を自負するほど、文芸を下のほうからすくっていこうとしているらしく、そういうメンタリティにあふれている同人誌です。早速、購入動機と評価をしてゆきたいと思います。

 

※本稿に書かれていることは「らららぎ」個人による感想の域を越えず、本サークル『本質的にちくらぎ』とは関係ありません。

 

購入動機と星型レビュー

【購入動機】

(1)「ひこばえ」ということば(桜のひこばえの写真を撮るのが好きなので)
(2)霧谷あのさんの三行詩「矯正具」の襟を正したような距離感
(3)奥付に責任者名がきちんと明記してあった
(4)印刷所が「ちょ古っ都製本工房」さんだった
(5)150円で手にとりやすかった

 

【評価】
装丁:☆☆    *私もやりがちですが、背表紙が倒れています
編集:☆☆    
校正:☆
目次:☆☆    *中央が三点リーダーだらけになっているのと、作者とタイトルが分散していて何を見せたいのかわからないです。
短詩:☆☆☆☆  *お気に入りが見つかりました。よいです。
散文:☆☆
小説:☆
企画:☆
奥付:☆☆☆☆

 

遊び紙

 表紙1をめくると、若草色の遊び紙(いわゆる前ペラ)に出合います。中厚口(ちゅうあつくち)でしょうか、厚すぎない・豪華すぎない感じが「ひこばえ」を連想させる、よい遊び紙の使いかただな、と感じました。

 

タイトルページ(大扉)

 やや右よりになっていて、表紙で使っている砕けたフォントとは変えて、がっちりした印象です。このページや、その他のパーテーションページのノンブルがノドギリギリに記されていて、良く言えば「隠し要素」、悪く言えば「邪魔」でした。ノンブルの位置をわざわざ切り替えることで、普段は風景と化しているノンブルに注意がいき、注意がいったからといってなにか面白いものがあるわけでもなく、かなりイラッとします。面白ければいいのですが、位置を替えたところでなにもないなら、替えないほうが読んでいて目障りではないのでありがたいと思います。

 

巻頭引用

 霧谷のあさんの「右往左往」の引用が飾られております。「右往左往」なのに、「行ったり来たり」(単に私だったら「往ったり」というだけのことですが)と書くのはなぜなのか気になりました。「~な私です」という告白調で始まる個人色の強い詩を巻頭に持ってきて本全体のイメージを代表させるのは難しいのではないかな、と思いましたが、おそらく部内で「これだ」というものがあったのでしょう。

 

目次

 ここでも「蘖」のフォントが変わっています。やや達筆なフォントを使用し、横書きながらも品書きっぽさを出せている印象です。「第4号(通巻第7号)」のフォントの大きさをまちがえたのか、微妙な位置取りになっている感じもしますが、微調整の時間がなかったのかもしれません。フォントを出したい雰囲気に合わせて積極的に変えてゆくのは、とても工夫が見られて素晴らしいと思いました。縦書きで、ジャンル・タイトル・複数三点リーダー・名前・ページという順番になっておりますが、タイトルと作者名を極端に離したのは、なぜでしょうか。結局は「………………」がページの中央に集まっていて、タイトルと作者名がその上下に分散している形になっているので、ぱっと見でかなり寂しい目次になっております。悪口っぽく言えば、「品揃えが悪そうな本」に見えます。

 

6ページ目

 目次の裏は、なぜかノンブルだけが書いてあるページがあります。もちろん印刷所のことを考えるなら、たとえ不要なページでもノンブルはトンボ内に入れておくべきです。それは「印刷所」視点を尊重することであって、読者にとって不要ページは不要です。どちらをとるかはひとそれぞれでしょうけれど、もし印刷所のことを考えて振っているなら、なぜタイトルページなどでノンブルの位置を替えるのかも謎になります。統一された編集意図というわけではないので、さらに妙に感じました。

 

扉(中扉)

 分厚い縁取りに重々しさを感じ、これから作品群を見てゆくんだ、という気合が入ります。ただかなり気になるのは「三行詩」と書いてある下に、「A poem of three lines」と書かれていて、これは英語観によって異論が出るところだと思いますが、私なら「A three line poem」にすると思います。理由はふたつあって、(1)「a poem of three lines」だと名詞句として完結し切っていない印象がある、(2)「of three lines」だとどうしても「lines」が複数形になってしまうのでバラバラな三行に思えてしまう、というものです。

 

(1)未完成な名詞句

 基本的に「a poem」に対して、前置詞を使って「of three lines」を後ろにくっつけるということは、まだまだそこに付け加えるべき情報があるように感じられます。つまり、「詩です/三つの複数行で構成されています/(その行は韻を持っていたり~)」(a poem of three lines [that have rhythm~])のような関係詞節による「行が複数であることの補足説明」が待たれます。というか、その機能を説明するための複数形の明示です。

 

(2)複数

 辞書や説明文のように、行が三つあることを機能的に説明・強調するには複数形を使用できる「of three lines」のほうがよいと思いますが、三行詩というジャンルのことを示すのであれば「three line poem」あるいはもっと結びつきを出して「three-line poem」のようにするのがよいのかな、と感じました。あくまで印象論なので正解や不正解はないと思います。私個人としては、かなり気になってしまったところです。どうして「a poem of three lines」という英語を加えようと思ったのか、というところへの興味と関心です。

 

三行詩

 冒頭にも記しましたが、心からいいなと思ったのは霧谷のあさんの「矯正具」です。引用いたします。

 

ぶれた視界じやよく見えない
焦点を合わせてくれるのは
調整役のあなた 

 

 この短詩を読んだときに、河野裕子さんの「日付のある歌」の連作を思い出しました。

 

明日になれば切られてしまふこの胸を覚えておかむ湯にうつ伏せり 

 

 六十三歳、乳がんで亡くなった歌人です。その手術の前日に詠んだ歌です。障害への距離感のつかみかたが、近すぎず遠すぎず、河野さんも霧谷さんもずば抜けてうまいな、と思いました。


文芸詩

 文芸誌(a literary poem)――日本語・英語ともにあまり聞き慣れません。このいきなりわかるようでわからないジャンルを説明なしにぶっこんでくる感じはとても好きです。「詩や文芸とはなにがちがうんだろう」と考えるのが楽しいですから。

 

 いいな、と思ったのがひとつだけあって、野生のペットさんの「247号」です。

 

いつだって帰り道
色んなトラブルに苛まれ
色んな幸せの小道

一人で走り
友達と走り
恋人と走り

いつだって帰り道
通らない日はなかった


時は経ち

恋人は去り
友達も去り
私も去った

今は知らない人達の
いつだって帰り道

久しぶりに走ったこの道は
もう帰り道ではない
誰もいない
ただの道

 

 計算されているのかわかりませんが、頭の「i-」が四つ続き、「走り(-i)」が始まったらそれが三つ続いて、また「i-」が頭に入り、「とお(o-)らない」に変わって、「こ(o-)いびと」「と(o-)もだち」の連続のなかで、「去り(-i)」を後ろに残し、「私も去った」で区切ります。また「い(i-)ま」「い(i-)つ」「ひ(i-)さしぶり」と「ひとだち(-chi)」「みち(-chi)」で合わせて、「道ではない(-i)」「いない(-i)」「みち(-chi)」でつなげている工夫が、とてもいいなと思いました。「い」の音を重ねていくことで、中途半端に清算された過去をそっと撫でるような、詩の温かい部分が出ていてすごく好きです。

 

 「いつだって帰り道」という帰り道の本質をとらえたような書き口も、ストレートな詩に混じって響いてきて、いったいどんな県道を走っていたのかとても気になりました。

 

ひこばえ俳壇

 「痛む耳」と「雪道を」がよかったです。

 

ひこばえ歌壇

 「見慣れてた」がよかったです。

 

さきがけの缶詰

 後半一発目のページ(全52ページ中の27ページ目)ですが、いきなり身内ネタでした。左右のページで、文字の位置がちがうのにも違和感があります。

 

散文

@うたた寝うた子の誕生秘話

 

 ゆうやさんですが、p.9とp.34では「うんち」と表記していて、p.32では「う○こ」と表記する変わり者です。うんちとうんこでは、やはりセンサードに微妙なちがいがあるのでしょうか。繊細すぎて私にはわかりませんでした(笑)

 

交際中だった夫に駄々をこね、結婚してもらって、この「子ども欲しいフィーバー」が止まらず、ピカピカの新居の中で私は夫に「こ・ど・も! こ・ど・も! こ・ど・も・が・欲・し・い」と色っぽさの欠片もない三々七拍子を繰り返していた。(p.32) 

 

 力強い…。ピカピカの新居の中なのがとてもよいです。「こ・ど・も・が・欲・し・い」にはビックリマークがついていないのですが、個人的には絶対についてるだろう、ということで補完して読みました。同文中に「夫に」が二回出ているので、よっぽど「夫に」というのが大切だったのでしょう。ほほえましいです。

 

我が子の寝顔は可愛い。
地獄のような寝ぐずを繰り返そうが、わずかな睡眠時間を問答無用で叩き起こしてこようが、あの愛らしい寝顔を見れば一発で疲れが吹き飛ぶ……と言うほどではないが、とにかく寝顔が可愛い。(p.34) 

 

 読んでいて心地良いです。

 

もちろん答えは返ってこないけど、うた子は今日も元気にうんちぶりぶりです。(p.34) 

 

 逆説がコミカルで素敵でした。

 

【校正要素】
・「最善のタイミングでやってきたのだ」のあとに句点がないです。
・「その一」「その二」「その三」「その四」の字下げが1マス分ズレていて、違和感がありました。
・「のは言うまでもなかった」「二週間かかったという」「と言うほどではないが」
・「まさに安産以外のなにものでもない安産」「助産師さんは何も言わず」「何やらスッキリした顔で」「原稿とは何ぞや」「人生は何が起こるか」「何でもいいよ」
・「吸い付く」「張り付く」「すりつける」「殴りつける」
・「妊娠できる」「外出もろくに出来ない」


@親愛なるJ

 

 小説らしいのですが、いきなり用語説明から始まります。漫画風というか、たまにこういう用語説明から始まる小説を見かけますが、(1)読者の理解力を馬鹿にしているのか、(2)読者へのサービスなのか、(3)文章力に不安だから設けているのか、(4)文章に組み込むのがだるくて設けたのか、(5)かっこいいから設けたのか、いつも疑問になります。

 

 可読性も低く、セリフ自体も中高生の作った台本のようで微妙でした。おそらく人間を描きたいのでしょうけれど、短編は出来事しか書けないので、この内容だと出来事自体にはなんの面白みもないし、短編なので人を描くことはできていないし、セリフのやりとりが楽しいわけでも、なにかの薀蓄に長けているわけでもないし、誤字や脱字、表記揺れ、字下げなど基本的な問題が目立ち、読んでいてしんどいです。

 

【校正要素】
・本文一行目の字下げ、p.42下段左4行目字下げ。
・「老いていくつれ」脱字?
・「彼の相性で呼ぶ者」誤変換?
・「Jは春も迎える前、」も?
・「病気以外での受付はこちらでは受け付けていない」
・「院長先生、井上は笑った」三人称視点なのに地の文で敬称は違和感
・「気さくな井上は、Jをそのまま特別病棟へと足を向けていた」二重目的語と主述の不一致
・「~なJに対し、井上は親父臭く笑うだけだ。『いえいえいえ。とんでもない。Jさんと出会うのは、なかなか機会がありませんからなぁ。今は、全国各地を旅しているそうで』」笑うだけじゃなくてめっちゃ喋ってます
・「君にしか出来ない」「長生きできるのに」「肯定も否定も高橋にはできない」「納得できませんよ」「何かできる」「やり直しだってできる」「我々には、できなかったこと」
・「それは周りに迷惑をこうむるということなんだ」おそらく逆です
・「Jの言うとおり」「君の言うとおり」「まさにその通りだ」「自分の思った通りに」「思い通りに」
・「更に言葉を繋いだ」継いだ?


@眠れぬ夜と聖者の行進

 

 きっといいところがたくさんあるような感じのいいテイストの文章なのですが、なぜかいいところが見つかりませんでした。私の実力不足を感じます…。

 

【校正要素】
・「宙に浮いた」は「ちゅうに/そらに」のどちらにも読めそうなので、できればルビが欲しいです…!
・「雲一つない藍色の宇宙に、砂金のような星がまたたいている」砂金は露骨に金色で世界観に微妙に合わなさそうです
・「砂金の粒が、ゆらりとゆれた」「ゆらりと揺れた砂金」「膨らみ揺れていた砂金の粒」「小さな身体を揺らした」「暗闇の中で揺れていた」
・「白熊が一際大きくはしゃぐ声がした」前方の『が』を『の』
・「草原がひっくりかえり」「振り返った」
・「ぎちりと眼球を動かと」脱字
・「気がつけば夜の空にいた」「気付けば女の身体」「気が付けば心身ともに」
・「良い父親、良い母親」「いいお父さんとお母さんにならなきゃな」「いい母親」
・「姿を見て声を上げる」「パンダは両手を上げる」「白熊はそっか、と声をあげた」


反省文

 「親しさ半ばに礼儀アリーナ」(野生のペット)――しびれました。

 

*************

 

 さてさて、通してみてきましたが、著者校や校正が全く入っていない様子で、「個人が輝ける作品を目指す」にはすこし雑ではないかという感じもしますが、書きたいことを目指して自己変容しようという前向きな作品が出揃っているな、と、とても好印象でした。同人誌らしいというか、熱をもってやっているんだな、というのが伝わってきて、あとは編集や校正が機能すれば本として価値がぐんとあがるだろうな、という惜しい気持ちが強いです。

テキスト系同人誌(文章系同人誌)のレビュー企画|第一号――『立教大学文芸批評研究会 文/芸 Vol.8 秋号』

立教大学文芸批評研究会は、
文学や芸術やサブカルチャーといったフィールドに、
創作と批評の両面からアプローチしていく新しいサークルです。
現在は、メンバーの個性を反映した、
さまざまなテーマの勉強会を中心に活動しています。

文芸批評研究会は、
既存の文芸サークルや創作系サークルとは、
一線を画した活動を展開していきます。
(文芸批評研究会・新ブログ「About」2012年3月24日) 

 

 今回とりあげる同人誌は「立教大学 文芸批評研究会 文/芸 Vol.8 秋号」(@bunhiken)です。読み終わって最初の印象は、勉強熱心なひとたちが集まっているなあ、というものでした。まずは購入動機と評価から始めて、細かいところを見てゆこうと思います。

 

※本稿に書かれていることは「らららぎ」個人による感想の域を越えず、本サークル『あみめでぃあ』とは関係ありません。


購入動機と星型レビュー

【購入動機】
(1)立ち読みしたときに「仮病」が面白かった
(2)「定価」と書いてあった(新しくてびっくりした)
(3)表紙四(いわゆる裏表紙)に誤字があったのでサンプルとして(校正屋なので)

 

【評価】
装丁:☆☆☆
編集:☆☆    *レイアウトは工夫されているけれど、細かい点の処理が雑です。
校正:☆     *特に校正されている様子はありませんでした。
目次:☆     *凝るなら凝る、見やすくするなら見やすくしてほしかったです。
評論:☆☆☆   *テーマ選びはさすがで、後は文章という感じです。
小説:☆☆
俳句:☆☆☆
企画:☆☆☆☆  *まさに目玉企画でした。面白いです。
奥付:☆☆    *みんなで創るのはよいのですが、「本」の責任の所在が不明瞭でした。

 

「定価」と「頒価」

 まず、同人ではあまり「定価」ということばを使いません。なぜなら、本における「定価」というのは、再販売価格維持制度によって規制されており、わざわざ「定価」にする意味がないからです。さらにその内容から「売ること」(商品化)がメインになり、コミックマーケットをはじめ、多くの同人即売会がかかげている「創作物」としてのニュアンスに反してしまいます。さらにさらに本来、頒価というのは「サークル内でのみ頒布される会誌」を部外者が手に入れるために払う対価でもあります。そのため「頒布」や「頒価」という言葉遣いを大事に扱い好む風潮が同人クラスタの全体にありますね。

 

 そこを「定価」でやり抜こうとする意志に驚き、購入いたしました。ちなみにVol.8の定価は500円です。定価ですので、値切られることもありますし、「安い」「高い」と文句言われることもあります。印刷所が「みかんの樹」で、表紙カラーの本文オンデマンドでしょうから、一冊あたり50~100円ぐらいの利益が出ます。もちろん同人誌は印刷代と製本代だけで値段が決まるわけではありません。いろいろな事情があって値段が決まっていますし、参加者や購入者はそれを不問にして飲み込むのがマナーですね。そこを「売り物」として出してしまうと、利益計算されて、やんや言われてもおかしくないということです。冒頭で引用した「一線を画した活動」というものの一環かもしれません。強気でとてもよいです。

 

黒歴史のすすめ」――まさかり伯さん

 前書きのない本誌は、目次を通ってすぐにまさかり伯さんの評論文から始まります。部内でいろいろあるのでしょうが、最初に読むには少し可読性の足りないような印象で、いきなり本を閉じかけてしまいました。テーマ自体が「黒歴史の取り扱い(dealing with)」というネット文化に関するもので興味深く、なんとか読み進めた感じです。

 

小学生が、(おそらく)親の許諾なしに顔をネットの海にばらまいて大丈夫かという問題はまた別の機会に考えるとして、本稿では「黒歴史」という単語に焦点を当てる。(p.5)

 

それがネットスラングであると知ってしまった今からすると、「黒歴史」は広辞苑にもきっと乗っているれっきとした日本語であると思い込み、その使用に全く疑いを持たなかった自分は何とも中学生らしく、思い出すたびに胸にチリッとした痛みと焦燥感を与える。(p.5) 

 

 「小学生が、」の不要な読点や、「広辞苑にも乗っている」「れっきとした」「~してしまった今からすると~自分は中学生らしく~与える」という表現あたりは、声に出して読んでみるとおかしいなと気づけるタイプの読みにくさで、できれば自身で一度ぐらいは推敲するか、人数が多いサークルなので校正部を新設するかなどして、文章を損なわないようにしてもらいたいと願います。

 

 他にも「このエッセイだけを持って提示する」(p.5)のミスや、「人間は何かを残さずには」(p.5)「あなたの黒歴史はなにか」(p.6)「いったい何のために」(p.6)「なにかエピソードを思い出し」(p.6)「何となく一般的に共有されているような」(p.6)の表記揺れなど、冒頭から気になるところはいくつかありますが、注釈の使いかたも微妙に分からず、「同人用語の基礎知識」のことは「あるネットスラング解説サイト」と書いて注釈に誘導しているのに、著者が運動会の是非を先生に聞いて回った黒歴史について補足的に、

 

たとえば、私の卒業文集の中で紹介された、「運動会っていったい何のためにあるのでしょう、納得できる答えがもらえるまで私はこの活動をやめません!」と学年中の先生に聞いて回ったという黒歴史は「点」である(運動会で活躍するような生徒がやれば、かっこいいライトノベルの主人公のような行動だったかもしれないが、学年リレーの何番走者に配置したら一番邪魔にならないか、という話し合いを持たれる生徒がやってもみじめなだけである)。p.6 

 

と書かれているところは本当に文章が長いし、読んでいて面白いわけでもないので、脚注なり注釈なりに放り込んでくれたほうがありがたいです。またこの直後に「たとえば」で具体例が連続するのも冗長で、飛ばし読みしてしまいました。同じく注釈問題として、

 

いくら小学五年生が作った黒魔術ノート(当時読んでいた小説から、汎用性の高そうな黒魔術の呪文と効果を抜書きしたポケットサイズのノート、保管場所はタンスの引き出しの底)が他人からみて黒歴史的であろうとも、作った張本人である私が「あれはなかなかいい出来だったぞ」と思っているうちは、絶対に黒歴史ではない。(p.6-7) 

 

もかなりきついです。どうしても入れなければいけない注釈なら、後ろに持っていってほしいと思いました。それと細かい点なのですが、

 

小学生が、(おそらく)親の許諾なしに顔をネットの海にばらまいて大丈夫かという問題はまた別の機会に考えるとして、本稿では「黒歴史」という単語に焦点を当てる。(p.5)

 

たとえば、私の卒業文集の中で紹介された、「運動会っていったい何のためにあるのでしょう、納得できる答えがもらえるまで私はこの活動をやめません!」と学年中の先生に聞いて回ったという黒歴史は「点」である(運動会で活躍するような生徒がやれば、かっこいいライトノベルの主人公のような行動だったかもしれないが、学年リレーの何番走者に配置したら一番邪魔にならないか、という話し合いを持たれる生徒がやってもみじめなだけである)。p.6

 

ここからは推測になるが、そこにあるのはそれぞれの投稿者児童に対する「悪意」や「憎悪」ではなく、視聴者に集団的に起こる黒歴史の想起であるように思われる。児童の投稿した動画を見て、(…)p.7

 

 このあたりの「小学生」「生徒」「児童」などの表現がブレていて、気になりました。生徒というのは中学生のことで、児童というのは小学生のことなのですが、ここでは全て小学生という意味で使われていて、わざわざ意味の異なるところに言い換える必要はあるのかな、と感じました。

 

 特に一章の「1、点」は、結局長い文章を読まされる割に、『同人用語の基礎知識』の定義を延々と説明されていただけで、じぶんのことばがなく、もう少しモタつかずに進めてもよかったと思います。

 

 他にも「中/なか」「持つ/もつ」「付ける/つける」などの揺れや、鉤括弧が段落頭にきたときの字下げ処理の抜けなどがありますが、無視して進むと、

 

それ[馬鹿にされて萎縮することで表現の不要な自己検閲をしてしまうこと]を防ぐためには、一人一人が、「あのエピソード、あの期間は自分自身が恥ずかしがっているからこそ黒歴史であり、自分さえ納得してしまえば、なにも恐れることはないのだ」と、晴れ晴れとした顔で生活すればいいのだ。(…)逆に、誰かが心えぐられる覚悟で出した黒歴史は、盛大に笑ってあげるのが思いやりである。誰かに指摘される前に、自分で指摘して笑ってしまうことを、痛々しくも現実的な「黒歴史のすすめ」としたい。(p.10) 

 

という再定義が行われます。黒歴史に客観性なんていらず、主観的に決めるものだという排除と区画整理を行うことで、黒歴史に怯えて過去を無視したり、表現を自重してしまうひとたちへ力強いメッセージを送ります。

 

 評論の前提を積み重ねていくタイプのエッセイというよりか、出し惜しみ(書きながら考える)タイプの文章だと感じます。テーマや着地点はかなり面白いので、もっと文章がよければさらによかった思いました。

 

「線を引きたかった話 誰を配慮しなくてもよくて、誰を配慮しなくてはならないのか」――人見灯さん

 タイトルを読んでわくわくしていたら、(人見さんの他のページではできているのに)いきなり一行目から鉤括弧の処理が抜けていて、ズッコケました。本誌全体を通して、処理されていたりされていなかったりで、逆に読みにくくなっています。文章を損なわないために、1マス下げるのか、2マス目を揃えるのか、どちらかに統一したほうがよいと思います。

 

 気を取り直して一文目。

 

「道徳的地位」の標識を与えるということがしたい。(p.12) 

 

 出し惜しみのない感じが、読者のことをわかっている感じでとてもよいです。「何/なに」や「作り出す/見つけだす」などの表記の揺れを無視しながら、やはり興味深い問いが続きます。

 

シャープペンシルの芯の幸福の総量を考えて何になるのか僕にはわからないし、カッターナイフの替えの刃の基本的諸自由とかいわれてもよくわからない。わからないが、しかし、ただわからないといっているのではよくないのではないかという感覚がある。どうしてそれを考えなくてもよいのだろうか。それがわからないままでいいのだろうか。(p.12)

 

 見事な停止に感動しました。社会学とか経済学がわからなくても、ここで立ち止まらなければならないんだ、というのが感覚的にわかるように書かれていて、嬉しくなります。

 

そしてこう答えてみたい:「人間であること」が道徳的地位の標識である理由は、自分が道徳的地位から締め出されてしまっているとき、「人間」だけが、「抗議の声を上げる」ことができるということにある。(p.15)

 

やっぱり、「抗議の声が上がること」なんていう物騒で暴力的な理由ではないような理由で線が引かれるべきだった。(…)いまのこの社会のこのありかたは、他でもありえたのではないか。この感覚が、どんな意味でも、道徳的配慮というものの出発点にあってそれを方向づけているべきであるように思う。そんなことが、同語反復から離れて、感覚や社会通念の相対性から脱け出たところでどうやって可能なのかはわからないが、でも可能であるような気もする。でもわからない、(p.17)[文末の読点ママ] 

 

 着地点というよりは、着眼点がとても好きです。読ませる文章もとてもよいです。

 

「年代・時代・価値観 現代社会における著者の在り方とそれを取り巻く環境についての『論なき論』」――菱田昂さん

いい意味でも悪い意味でも、昔の日本は寛容だった。あまりに早すぎる成長の中で、取捨選択というシステムが機能不全に陥っていたのかもしれない。とにかく、すべてを巻き込んで社会を形作ろうという流れがそこにはあった。そこには表も裏も入り混じっていて、公害などはその"裏"に該当する。そうした"裏"はかなり危険を孕んでいるので、人々はそれが判り次第放逐しようとする。少しずつ"裏"の面が消滅していくと、社会全体の規模が小さくなるので成長も穏やかになる。(p.19-20) 

 

 このアイデアを用いて、年功序列や、それが生み出した社会などについて斬っている、というところまではよかったのですが、基本的に俯瞰の位置から語っていて、それがほとんど失敗しているため、読んでいてなにかを得られたりすることなどはありませんでした。特に読んでいて残念だったところを挙げるとすれば、

 

それだけ若年層と壮年層の間に認識のズレが生じているからである。私の目から見ても、あまりものを考えない若者というのは非常に多くなった(と言っても、私は昔のことをよくは知らないが)。「常識が無い」こともそれには大きく関係しているだろう。ここでの「常識が無い」は「若者の常識が不足していること」と「常識の定義が薄れていきていること」を示したい。まずは前者、常識の欠如について話していこう。おそらく壮年層以上の方々は、大半が「若者がバカになっているから低年齢層による犯罪が凶悪化或いは増加するのだろう」とお考えであろう。私から言わせて貰えば、前半は正解だが後半は不正解だ。「バカな若者が増えている」これに関しては言うまでもない。私としても恥ずかしいところだが。厳密に言えば「知識も欠如している」し「興味関心もない」のでどうしようもない。TV番組などで取り沙汰される「無知層」は編集され選別された(無知の中でも無知)ものであるため、一概にあそこを基準にされては我々も困るのだが、一般常識としての「知識」を持っていない人間は若者の中に一定数いるだろう。同年代と話をしていても、当然の話が通用しないことがままあって混乱する。(p.21) 

 

 このあたりでしょう。頑張って逃れようとしているけれど、この文章も「世間知らずな若者」の域だと言えます。自己言及しているフリをしてことごとく自己言及を免れようとしている文章で、そのせいでこれだけ長い文章なのに何ひとつアイデアを書けていません。ゆっくり読めば誰でも気づきますが、それがバレてしまっている典型的な駄文に思えます。一般的な批判語で言えば、「この文章を書くにはまだ早かった」というところです。あるいは「試みは評価したい」です。アイデア自体はよかったので、自身のプライドをなくして、自己言及しながら書いたものを読みたいですね。私が本誌の編集だったら、そういう文章へのリライトを要求いたします。

 

「文学研究を全く知らない者による自己言及的な文章」――雲雀さん

 狭いタイプの二段組なので、がんばって改行してもらいたいです。本人のなかではつながっているのかもしれませんが、ここも編集あたりが「読みにくいよ」と言ってあげてもよいのではないかと感じました。文章力自体はそこそこあるように感じましたが、批評本ではなくはてなブログで読みたい内容でした。

 

「君としたい探す夏」――松木良さん

 本誌をはじめから読んだひとは、絶対に「またセリフから始まる文章か」とだるくなったと思います。巻頭に『黒歴史決定だな(笑)』で始まる評論があって、それの再演に見えます。その時点で、読む気がかなり失せますね。ここでは「裏山に、死体を隠したんだ」を独立させて、印象的なセリフであるかのように書いてあるのですが、ややお腹いっぱいな感じです。なによりそのあとが辛く、

 

幼なじみの神埼くんという人は、真面目で、努力家で、勉強がよくできて、曲がったことは大嫌いで、ないよりも誠実さを好んで、行儀がよくって、自分に厳しい人だった。(p.29) 

 

というなんの面白味もない「キャラクター説明文」が始まります。説明文に対して7回も「あっそ」と言わねばならない苦しさを、おそらく経験したことがない人物が書いているのだと思いますが、小説を書くなら小説を読んでからにしてもらいたいな、と感じました。我慢して進むと、ようやく小説らしい「描写」が入ります。

 

第一ボタンまでぴったりと留められたカッターシャツには、いつ見たって皺ひとつなかった。細身の体が常に持ち歩くのは、参考書に教科書にノートがこれでもかと詰め込まれたスクールバッグで、よく肩を壊さないものだと関心していた。どんなにつまらない授業でも、はたまたどんなに眠たい授業でも、彼は背筋をぴんと伸ばして、ペンを動かしていた。(p.29) 

 

 まあ、こういうのが何行も続きますが、それなら最初の「説明文」は要らなかったし、この描写部分も同じことの繰り返しで飽きます。「細身の体」も強調したいのはわかりますが、気持ち悪い二重表現なので「細い体」とかにして欲しかったなと感じました。さらに本当に小説を書くなら「細い」という説明文も使わないほうがよいでしょう。細いことをどのように表現するかが肝心なのに、「主人公は細かった」と書くのは、「主人公は孤独だった」とか、「主人公は世界を守った」と書いちゃうくらいおかしいことで、そのあたりの小説の基礎みたいなものを見なおしていただけたら読めるかなと思いました。あとセリフに「……」が多くて読めませんでした。すみません。

 

「ボクだけの家族」――奴隷人生さん

 こういう「物語」のセンスと、それをさらっと書きだすだけの文章力、それを見せつけながら淡々と進んでいく「成敗」の物語。大人にお仕置きしながら、やはり大人の言葉で動いていることに気づいていないあたりが、大人の私にも刺さってくる深読みしがいのある暗示的なストーリーでした。

 

 まあ「不自由」とか「我が物顔」とか「感慨深い」とか「纏う」とか子どもに似合わない表現が入ってきて、著者が「ボク」に介入してしまったところや、先生の胸の大きさを強調しているところなど細かいところで違和感はあるものの、全体的に読みやすく書かれておりました。現代演劇のような、テーマを最後に置き去りにするところなども個人的に好きです。

 

「マグロと戦車とネギトロ丼」――大和さん

 異論はあるかもしれませんが、「~した。」が延々と続くので、間延びします。プロットを進めるのに一生懸命で、もう少し小説に余白があれば、よりうまく書けたかな、という気がしました。人見さんのときもそうだったのですが、地の文の「……」に句点がないのが本当に違和感で、かなり気持ち悪くなります。セリフ内に「?」だけ入れてもセリフにならないので、その「?」を地の文でどうにか書きたいところです。

 

 アイデア自体は面白いのですが、この文量でやるにはワンアイデアでは間延びしますし、プロットを進めようと説明口調になって退屈になります。セリフに魅力的なものがあればよいのですが、セリフも物語を進めるための機能になっていて、そのあたりにひとつづつ工夫が入れば一気によくなりそうだな、と感じました。

 

 それと人によって入っている、終わりを表す〈了〉というのが、それを書かなくても済むようにならないのだろうか、と疑問です。本文を損なってしまうので、できるだけ書かずに分かるほうがよいと思います。

 

「ホールアウト」――葛城蓮士さん

 俳句の一連十二作です。今風の俳句を作りたかったのでしょうけれど、わざわざ自由律にしている理由のようなものがまったく伺えず、なんか微妙な雰囲気でした。ただ私がカレー好きというのもあって、

 

秋の山マグマの如くカレー盛る (p.55) 

 

は風景の出方がとてもよかったです。

 

「ファッションを考える」――編集部企画

・ファッションにおける「差異と同一化」の考察――タンタルさん

 

 まあ、現代思想の言葉でふわっと書いたファッション雑感という感じで、なにか考察になっているかというと、別になっていないな、という感じでした。字数に対して引用が多くなりすぎて、衒学的な雰囲気は出せていますが、引用回収に忙しくなって、著者が亡霊化してしまっているのが惜しいです。あとルビの部分で行がズレているの、誰も気づかなかったんですかね。ルビ自体も「ミメーティック」ではなくて、「ミメーテイツク」と振ったほうがよいと思うのですが、あまりそういう編集上の原則みたいなものには興味ないのかな、という全体の印象です。

 

・何故ファッションにお金を投ずるのか――雪猫さん

 

 調べて書いたんだろうな、という感じで微笑ましいですが、じぶんの言葉になっていないので「漏れ書いた」ようになっていて、改行もできていません。かなり書けるかただと思うので、そこが惜しかったです。

 

・いつかあなたに『ar』を説明したいので読んでください――てんかさん

 

 調べた感じは同じです。改行もがんばりたいですね。「おフェロ」「雌ガール」知りませんでした。勉強になります。p.61の鉤括弧字下げ処理ができていなくて、少し残念でした。

 

・研究ノート ファッションから見たメンヘラのイメージ――雲雀さん

 

 やりたいことは一番わかりましたが、NAVERまとめを文章化したような感じで、メンヘラについての理解を望んでいるような感じはありませんでした。メンヘラを「題材にしたい」のであって、その理解への熱情は特になく、このままではずっとメンヘラのことを「分析だけ」して満足してしまうような気がしました。

 

美少女ゲームにおけるファッション――Charlesさん

 

 短く出ましたが、私服と制服に関する立ち絵とリアリティの話が興味深かったです。ぜひもっと長い論考を読みたい、と思いました。

 

・ファッションするカラオケ――銀粘土さん

 

 いちいちブリタニカから始める意味はあるのか、という疑問でまず止まります。なんでもかんでも広辞苑や事典に冒頭を頼る風潮は、ここにもあるか、と。

 

・仮病――人見灯さん

 

 これを読んで買いました。引用します。

 

解熱して咳を止めて健康を装えばいい。梳ればいい。ドレスコードが伝染するという話があった、感染するといってもいいかもしれない。模倣と差異化と模倣ということもある。帰ってきてみて思ったのは、大したことではなかったということだった。着たいものと着たくないものがあるということが大切な人と大切でない人がいる。どこでもらってきたのか、いつのまにか知ってしまっていて、知らなかったらどうだったかなんて考えることもできない。でも考えて、装わなければどうにもならないこともある。引きたくなかった風邪を引いたということだった。(p.68-69)

 

 ここだけで二回ほど唸りました。小説としても通用しそうな自然な語り口が染みこんでくるのも、またよいです。

 

・シュガージンジャー――青島透さん

 

 また独立したセリフから始まります。本誌三回目、さすがにネタなのかと思い始めました。セリフの流しかたはよく取材されているものでうまいですが、どうも地の文が説明に偏ってしまって、最悪なくてもいいのではないかとさえ思いました。会話だけでも豊富に成り立っている感じなので、地の文を入れるならもう少し退屈にならない間のとりかたを工夫してほしかったです。セリフは生きていてすごくよかったです。

 

*********

 

 書いていたら、ここはこうして欲しかった、みたいなつまらない要望ばかりになってしまいましたが、「読んだんだな」と伝わったと存じます。人数が多かったので大変でしたが、じぶんとしても「読みたかった同人誌をちゃんと読めた」ので嬉しかったです。「文芸批評研究会」のサークル誌はこれからも買い続けたいと思います。

 

 それと、編集さんが変わったのでしょうか、文芸批評研究会のブログが読みにくかったです。赤とか青とかピンクとかをカラフルに使って、文字の大きさも頻繁に変えて、可読性が下がっておりました。十年前の中学生のブログみたいで、以前のような落ち着いたもののほうがよいのでは、と感じました。

テキスト系同人誌(文章系同人誌)のレビュー企画|第〇号――私たちは本当に「感想」が欲しいのだろうか(L)

 創ったからには受け取った側の声を聞きたい――たとえどんなに内輪の盛り上がりで始まった閉鎖的な同人誌でも、その願いは大小おなじものだと言えるでしょう。値段をつけ、誰かの手に渡り、それがどのように読まれたのか、どんな想いを引き出したのか、それはもしかしたら流通させることの責任感であり、即売することの緊張感かもしれません。

 

 既読カード http://togetter.com/li/960057 や、書籍売上カード http://www.graphic.jp/lineup/offset/bookslip.php などを利用して、どうにか感想をもらおうとおもっても、やはりうまく機能しないこともしばしば。そもそも読者は読んでくれているのでしょうか。積ん読という闇魔法の餌食になっていることもありえます。

 

 同人誌の動向情報を見ても、「同人誌を創るには」「同人誌を売るには」「同人誌の価格は」「二次創作は違法か」「正しい表現の使いかた」みたいなものばかりが溢れ、「(1)感想をもらって、(2)それをどのように消化するか」ということが技術的に書かれておりません。これは自己満足に終始してしまいがちな同人業界を控えめに表していると言えます。

 

 あらゆる同人業界は、創り手が受け手でもあり、受け手が創り手であることが基本です。読者は著者であり、著者は読者ということで、純粋な読者も、純粋な著者も珍しいと言えます。そうなってくるとやはり、〈先に感想を言う〉ことで、コール・アンド・レスポンス、こちらの本を読んでもらえる可能性がひろがりますね。

 

 まず大事なのは「先に感想を言う」の障害を限りなくゼロに近づけることです。障害をあぶり出して見ましょう。

 

(1)まだ読んでないから感想を言えない。
(2)ようやく読んだけど随分前の同人誌だから今更感がある。
(3)「ふーん」以外の感想を言えるほどちゃんと読めてない。
(4)「ふーん」以外の感想を言えるほどクオリティが高くない。
(5)本誌の雰囲気が内輪的で感想を言いにくい。
(6)そもそも感想を求めているかわからない。
(7)感想はあるが正式な宛先がわからない。
(8)感想の宛先が遠い・複雑。
(9)感想を言うまでに入力しなければいけないことが多くて煩雑。
(10)感想を言ったけれど何のリアクションもないのでもう言わない。

 

 最も本質的に思える問題は、「同人誌が長続きしない」という一般的な状況問題です。同人誌をすぐに読むひともいるでしょうけれど、多くは大切に保管されます。そんなにすぐ読む「べき」ものがないからです。記念品であり、戦利品であり、それは逆に実用品ではないということですね。買ってから一年後に読めば早いほうで、一年というのは東京文フリ二回分(初夏・秋)、コミックマーケット二回分(夏・冬)ですよね。そのころまで同じ文芸誌が「活動している」あるいは「熱をもって本作りしている」ことが珍しく、感想を言っても仕方ないとか、今更だなという感じが出てきてしまいます。

 

 感想を言うためには、買ってからすぐに言う習慣をつけることが大事です。コスプレ・ポトレ界隈で言うところの「速報」をやろうと意気込めば、感想を言えるような気がしてくるのではないかと思います。もちろん手に入れた同人誌をすべてレビューするのは難しいですから、じぶんのなかで「名刺が可愛いから」とか、「売り子の愛想がよかったから」とか、「高かったから」とか、「表紙が気に入ったから」とか、などどうでもよさそうに思える基準をもうけて、それを信じて、優先順位をつけて感想を書いてゆくのが微熱的でよいと思います。

 

 次に問題なのは、「クオリティ」に関する問題です。買って読んだはいいけど、つまらないとか、誤字が多いとか、表記揺れが校正されてないとか、読みにくいとか、そういうことが頻繁に起きるのがアマチュア作家の世界です。感想を文章におこそうと思っても、悪口のような内容しか出てこない――そういうこともあります。でも、それも言っちゃいましょう。じぶんに「正直なレビュワー」というレッテルを貼って、感想プロジェクトの一環に無理やり組み込んでしまえば、なんてことはありません。あくまで「先に感想を言う」という目的のためにやっているので、あらゆるハイクオリティな同人誌のクオリティを褒めちぎるためにやっているわけではない、ということを肝に銘じる必要があるでしょう。

 

 問題の問題性を把握することで、だんだん、感想を言えるような気がしてきたのではないかと存じます。

 

 次の問題は「感想を求めているかわからない」というコミュニケーションの不可能性に関する問題ですが、ここも冷徹に「100%相手のためにレビューするのではなくて、50%はじぶんのためだから」と割り切ってみせることで乗り越えることができると思います。

 

 そして宛先問題もありますが、じぶんのブログでやるか、ツイッターで連続ツイートしてクラスタにまとめられるのを待つか、奥付に連絡先があれば送りつけても構わないと思います。ただ、レビューを参考にしたいひとなども出てくると思うので、どこかにアーカイブしてあるのがよいかもしれませんね。ブログで公表するのが、宛先無用でラクかもしれません。そのときはきちんと「同人誌名」を検索しやすくトップに持ってくるのがよいでしょう。

 

 「感想を言うためにどうすればいいか」なんて、読書感想文を強いられている小学生が聞いたら大人は頭がおかしいのかと首をかしげるであろう内容ですが、つまり(1)できるだけ速報を心がける。遅れたときはまだ活動中の同人誌か確認する――学生サークルだと伝統があるので長いけれど、中の人が入れ替わっている可能性が高い、(2)褒めるだけが感想ではないので、「ここがつまらなくて読むのやめてしまった」という内容でも価値のある感想になり得るからバシバシ書こう――50%相手のため、50%じぶんのため、(3)宛先が面倒ならブログで公開しよう、この三つを信条としておけば、かなりコンスタントに感想を書けるようになると思います。

 

 そして、これで「先に感想を言う」がクリアでき、ようやく「じぶんの文章にも感想をもらえた」としましょう。今度はどのように消化するか、が問題となります。具体的には、(ありがたいのはありがたいのですが)相手にするのがだるい感想もあります。

 

(1)的はずれなもの
(2)ちゃんと読んでないと思われるもの
(3)あまりにありきたりな賞賛に終始した挨拶みたいな内容のもの
(4)敵意や悪意のあるもの
(5)偏見や先入観によってひどく歪んだもの
(6)文章が下手でなにが言いたいのかわからないもの
(7)婉曲的に書いてくれたはいいけど回りくどすぎて意味不明なもの
(8)短すぎてどこのなにに関する話かわからないもの
(9)熱狂的なファンの熱狂的であることに終始している内容の乏しいもの
(10)重箱の隅だと思ってたことをメインとして取り上げられたもの

 

 などなど無視したくなるものがあって、感想をもらうからにはこういうものもハイペースに紛れ込んできます。問題を日本の教育や文化にひろげるのはやりすぎなので自重しますが、おおむね「感想」を言うのも言われるのも慣れていないので、いろんなすれ違いやギクシャクが発生します。ぜんぶダルいです。

 

 ここで立ち止まる必要があります――私は本当に感想が欲しいのだろうか。

 

本当に欲しいのは「まるで見返りを求めず私を好んでくれるファン」ではないのか。
本当に欲しいのは「耳心地のよい褒め言葉をくれるクラスタ」ではないのか。
本当に欲しいのは「私を作家だと認めてくれる愛すべき読者」ではないのか。
本当に欲しいのは「努力したところをちゃんと分かってくれる理解者」ではないのか。
本当に欲しいのは「私が挫けそうなときに励ましてくれる介護人」ではないのか。

 

 感想、要りますか。そんなもの欲しかったですか。ここはひとつ立ち止まらなければならない地点だと思います。既読カードの優れているところは、「既読に丸をすること」と「値引きになること」がメインになっていて、感想は双方にとって軽んじるべきものだという前提にあることです。感想は、「どうしても書きたいファン」だけが書く仕様になっているんですね。既読カードは、「次も買いたいですか」というアンケートを最も単純な形に置き換えた発明品なわけです。

 

 それを理解していないひとたちが、「値引きは要らない」と大量にコメントしておりましたが、そもそもの値段を高くしておけば値引きによる「適正価格」への影響はありません。値引きをすること自体が既読カードの意義を支えているわけですから、値引きは要らないという発想はじぶんの善意と戯れすぎたひとの発言だと言えるでしょう。

 

 何も考えない多くの作家が感想を欲しがり、よく考える作家は別に欲しがらなくて、よくよく考える作家が既読カードになるのではないかと感じます。そういう区分がどこまで有効かわかりませんが、今年の文フリや夏コミに流行りそうな既読カードの、悲惨な結果がなんとなくイメージできます。

 

 さて、それでもやっぱり感想というものが欲しいのだ、という大変態もいることでしょう。そちらのかたは、大丈夫です。アンケートや感想に誘導できるものをとにかく設置してください。QRコード、アンケート用紙、書いて送るだけの状態のはがき、グーグルスプレッドシート、既読カード、書籍売上カード、なんでもいいです。とにかく用意して、そのひとつひとつにしっかり返信できるブログやホームページを用意して、向き合うだけです。そして書き続けて、出し続けて、とにかく「感想をもらったからにはやめないこと」を信条にやるだけです。

 

 私も、感想を言うことが「文化」になるよう、ひたすら同人誌のレビューをしようと思います。どうかあなたも、ツイッターやブログで、いろいろな同人誌の――できれば我々「あみめでぃあ」の!――感想を発表してみてくださいませ。

 

http://togetter.com/li/776176

 

『あみめでぃあ』vol.4の参加者と目次(随時更新)L / M

 編集のらららぎ(@lalalagi_chatte)・制作進行&校正監督の水月です。予定を含む参加者とその目次を載せております。購入や立ち読みのご参考にしてくださいませ。 

 

 現時点での情報は、著者の「草稿」をもとに載せております。すべてが「仮」の状態であることをご了承くださいませ。

 

 


★ちくわ:「だまされる」の取扱説明書――失われた≪だまされない≫を求めて

 

取扱説明書の取扱説明書

 

第1章  不毛な問い――「だまされる」とはなにか

1-1 私はだまされることが怖いのだろうか

1-2 ぺしゃんこ視点、ぺしゃんこ時制

1-3 概念は踏み台である――「下心」を例に

1-4 どこからが結婚詐欺ですか

1-5 「だまされる」というのは

1-6 無人島にでも行けばいいのか

 

第2章 めざまし主義の罠――「だまされる」の向こう側

2-1 「正しい」ことを「知っている」――安全圏の先どり

2-2 めざまし主義の罠(メザマシズム・トラップ)

2-3 ひとつの世界、たとえばインターネットのような

2-4 どこで止まるのか、誰が止めるのか

 

第3章 バグ無き世界と選択権――「だまされる」と選択

3-1 ゲームの快感、判断と選択

3-2 「公開という自由をまとって」

3-3 望んだものが手に入る恐怖

3-4 奇跡も、魔法も、あったとしても

3-5 《判断》の最後の部分以外すべて

3-6 守るために傷つく――「うしろめたさ」の辻褄合わせ

 

第4章 未来を向いたコミュニケーション――「だまされる」と誠実

4-1 コミュニケーションという「だまし合い」

4-2 偶然を必然に――未来を向いた心意気

4-3 「見せたいもの」と「見たいもの」

4-4 「本当のこのひと」への依存

4-5 現実不信

4-6 《だまされない》私が、《判断》するということ

 

第5章 ≪だまされない≫を断つことはできるのか――「だまされる」と判断

5-1 解決なんて、あるわけない

5-2 第一の問題、懐古厨

5-3 第二の問題、山のぼり

5-4 第三の問題、それはつまり《判断》の問題

5-5 《だまされない》を断念すること

5-6 《だまされない》という暫定解(セーブポイント

 

「ボク」のあとがき――あるいは明日への課題 

私のあとがき 

 

★らららぎ:『迂回と秘密(Circumvention / Secret)――向き合うこと・明るいことは善いことだと考える物語脳に関する分析』(仮)

*はじめに――迂回の日、それと「迂回」の語源について

*王道の速さは、不十分な近さである

*介することで確かにするということ

*迂回できないひとたち――正面突破は絶望と同義である

*秘密を秘密にするために――比喩としての「秘密」をやめること

*二種類の「秘密」――秘密は女を女にするか

*明るいことは善いことだというコンプライアンス人間

* 敢えて総じて(ボーナストラック)――移動するときに起きていること

*あとがき

 

 

★蒼大エアリーズ:Military enforcement「誰か」<が銃を持つとき 

*我々は軍隊を見なければならない

進撃の巨人が語る殺戮マシーンと暴力装置

*「威信」なるものの光源

*ごめんで済むなら軍隊はいらない

*軍隊は我々を執行する

  

★却下:見る、或いは、見える(小説)

  

☆二号:回想者「X」の花束

*幼児者「X」の発見

*異端者「X」の進化

*監視者「X」の脅威

*悪戯者「X」の虚言

*創作者「X」の献花

*注釈者「X」の後書 

 

 ★みやら:信頼について(仮)

*はじめに

*「信頼」という問題:社会学的な観点

*信頼はごくありふれた事柄である

*互いに信頼するという賭け

*信頼は時間を必要とする

*文章を読み、書くときの信頼

*信頼は生きる意味を支える

*おわりに

 

☆もぐら:世界。あやふやなさかいめ。

*ぼく。(世界は遠い、とてつもなく。)

*僕。(世界は決まりでできている。)

*私。(世界は他者との関係のうちにある。)

*わたし。(世界はきらきらで溢れている。)

*俺。(つまるところ、あらゆるもの。) 

 

☆みずき:自己評価に殺され、自己評価に生かされる私たち

*自己評価、それは生きていくための手段

 

☆大人たん:勇者の装備(小説) 

 

★千代恋あめ:自傷について(仮)

*雨音がかすかに聞こえるカフェの奥、千代恋あめと名乗る男を前に。

自傷への再確認。

*レールから外れたくない人たち。

リストカット

自傷者たちの痛覚に、刺激に、理由を。

*その先にある忘却。

*自己逃避、自己救済。矛盾。

*冷えきった夜、バーの奥、見知らぬ傷だらけを前に。

 

★香狩悠:アルカロイド黙示録(小説)

*第一のラッパ:宣告

*第二のラッパ:食卓

*第三のラッパ:子供

*第四のラッパ:犬神

*第五のラッパ:女陰

*第六のラッパ:惨憺

*第七のラッパ:慟哭

 

★めがねマエストロ:(コピー――小説)

☆寝返りレタス:(飼うということ――漫画)

★白右:(名探偵)

わかりやすさを求める原稿のとても困るところ(L)

 こんにちは、編集のらららぎ(@lalalagi_chatte)です。本日は「わかりやすさ」を求める原稿(あるいは「わかりやすさ」を訴えた原稿)の困る点を取り上げたいと思います。一概には言えないことなので絶対的なルールではありませんが、「わかりやすさ」を一芸的に求めているかたはご参考にしてくださいませ。はなから「わかりやすさ」など諦めていたり、興味をもっていない著者のかたにはほとんど関係ない話に終始いたしますので、お気をつけくださいませ。

 

 

 

 わかりやすさは紛れもなく価値として認識されています。文章を書くうえで、わかりやすいこと以上にクリアな価値ってあるのでしょう、と首を傾いでしまうほどですよね。どんな文章読本にも「まずはわかりやすいこと」のような指南が載っております。

 

 わかりやすさというのは、誰にでもわかることばで書かれ、明瞭な結論を先にもってきたり、要点だけを線条的につなげたり、具体例を豊富にあげたり、具体的な数字・データを参照したり、卑近なロジックの類推をしたり、ウェットな表現を省いたり、図によって外化したりすることです。そういう数々の工夫によって「わかりやすさ」が生み出されているわけですね。

 

 ただ、これらは「手軽に書かれた」だけであって、わかるかわからないかにとって重要なことではありません。

 

 わかりやすいかどうかは、説明する側(書く側/教える側)が判断することではないということをまず理解していただきたいのです。加えて「わかりやすさ」を求めているひとというのは、文章上のロジカルで省エネで手軽な工夫ではなく「わかることが書かれること」を望んでいます。

 

 つまり、わかりやすい文章のターゲットは、「わかることが書かれていなければならないひと」のことであって、そこを想定しながら文章を造り上げなければならないということです。それが想像できるでしょうか。あるいは、みなさんの書いた「わかりやすい」文章は、そこに到達していると言えるでしょうか。

 

 この案件は非常に厄介です。わかることが書かれていなければならないひとのために、「え、そんなところから説明しなきゃいけないの」というところを何度も反復しなければならないのです。たとえば、犬を飼うということをわかりやすく(わかるように)説明したり、教えたりするために、まずは何からはじめるべきだと思いますか?

 

 「購入可能・引取可能な犬が集められている場所」でしょうか。そんなところ、からはじめるのさえプライドが許さないひともいますよね。そういうひとはついつい「餌のやりかた」とか「しつけのしかた」「散歩のマナー」「種類のちがい」からはじめてしまいます。それでは困るのです。

 

 もっと基本的で、初歩的で、「そんなところから」と言ってしまいたくなるところ――つまり「自宅がペット飼育可能環境か」とか「犬を飼うというイメージと現実のギャップ」とか――からはじめないといけませんね。あるいはもっと踏ん張って「お金や時間かかりますよ」とか、「成長しますよ」とか、「おしっこしますよ」とか、「吠えますよ」とか、「犬だって体調崩しますよ」とか、当たり前の心構えについて確認するべきでしょう。

 

 わかることが書かれている、ということは、こういうところからくどくどと説明されているということです。結論から書いてある(「あなたは犬を飼うべきではない!」)とか、要点だけ書いてある(「金と時間があって、成長と健康管理、しつけやマナーなど理解できればOK!」)とか、そういうことではないんですね。

 

 それはどんな文章でも同じことです。特に「わかりやすく書きたい」と思っているかたは、だれかになにかを教えたい・説明したい・わかってもらいたいわけですから、犬の飼いかたを「わかるように」教えるのと大差ありません。それを意識してもらいたいのですね。

 

 「これらのことは私にとっては常識なので、ここから説明しますと」という教える側のプライドは不要です。邪魔です。障害です。読んでいて不愉快です。申し訳ありませんが、リライトの要請をすることがあります。再提出で直らない場合は、原稿を受け取らないこともあります。悪口を書いているわけではなくて、わかりやすく書きたいならわかるように書いてもらいたい、とお願いしているわけですね。

 

 犬についてわかりやすく書くなら、「犬って実は成長するし、おしっこするんですよ」というところ、あるいは「飼うには環境が必要なんですよ、お金が必要なんですよ」「ペットショップという場所があるんですよ、シェルターというところがあるんですよ」「実は種類がたくさんあるんですよ」というところからしっかり、省かず、飛ばさず、当たり前でしょという雰囲気をいちいち出さず、真剣に書き込んでもらいたいのです。

 

 ウェブ記事・参考書・学習書にありがちな「わかりやすい」原稿の最大の弱みは、「これさえわかれば大丈夫」というテンションで書かれることです。もちろんその「これさえ」にちょうどよく乗っかれたひとは絶賛するわけですが、ほんとうにわからないひとというのは「これさえ」にさえ乗れません

 

 もし「これさえわかれば」という書きかたをしたいのであれば、「これさえわかればだいじょうぶ、でもわからなかった場合はこっちからわかるとよくて、それでもだめだならこれもわかろう」と書かねばならなくなって、逆に読みにくくなりますよね。

 

 編集側からお願いしたいことは、「わかりやすさ」を求めるのであれば、教える側のプライドを捨てて、丸出しのエゴを控えて、徹底的に「わかるところ」から書いてもらいたい、ということです。文章上の創意工夫にこだわりすぎて、なにを書けばいいか、というところを見失わないでもらいたいのです。もしそれがむずかしいのであれば――徹底することは実際かなりむずかしいことです――、「わかりやすく書いてやろう」などという気持ちにしばられないで自由に書いてもらいたいと願います。

 

 『あみめでぃあ』では、それぞれの狙っているもの、それぞれにとって文章価値のあることを、それぞれが徹底してほしいのですね。抽象的な概念を転がしたいなら、それに徹底してもらいたいし、豊富な具体例を取り揃えたいならそれに徹底してほしい――そういう過剰性を価値へと転換する一芸(芸風)を取り込んでほしいわけです。もちろん初めて書くひとがプロのように、というわけにはいかないでしょうけれど、徹底しようとした痕跡をしっかりつけておいてほしい、小綺麗なまままとまらないでもらいたい。そういう願いを強く持っております。

 

 そのために編集も校正も、できるかぎりの手を貸します。その準備はいつでもできております。いつでもお声かけくださいね。

誌長まえがき完成&全文公開――「『おなじ』と『ちがう』のあいだ――わけのわからないところで止まること」(L)

 こんばんは。編集のらららぎ(@lalalgi_chatte)です。誌長ちくわ先生のまえがき原稿が届いたので、全文公開いたします。

 

 

まえがき「おなじ」と「ちがう」のあいだ――わけのわからないところで止まること(ちくわ)

 

誰かと話をしたり、書いたものを読み合ったりするのは、とってもむずかしいものだ。それというのも、私たちが「おなじ」と「ちがう」という素朴な武器しか手にしていないからかもしれない。

「それってけっきょくあれのことでしょ、二番煎じなんでしょ」と話を聞かないこと(「ぜんぶおなじだよね!」)と、「なんのことかさっぱりわかんねえや、お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」と話を聞かないこと(「ぜんぶちがうよね!」)――その両極端のあいだに私たちは立っている。

誰かの話を呑みこめないことはつらく、さみしい。誰かに話を聞いてもらえないこともつらく、さみしい。私たちはそのさみしさに耐えかねて、「おなじ」と「ちがう」のあいだを乱暴に往復する。やけになって開き直りたくなることもあるだろう。あれとこれの「おなじ」にならなさに絶望して、「ちがう」にすべてを任せたくなったり。あれとこれの「ちがう」ところ探しの馬鹿らしさに屈して、「おなじ」に頼りっきりでいたくなったり。

でもダメだ、それじゃダメなんだ。どっちに向かったって、端までつっこんだら私たちの悲しみは深まっていくだけだ。じゃあどうする。「ブレーキをかける」しかない。

「おなじ」と「ちがう」に挟まれた、なんの標識もない不安定なところ、「えっ、ここで止まるの?」とみんなが首をかしげてしまうようなところに緊急停車して、もう一度話を聞いてもらえるよう頼みこむんだ。もう一度、相手のことばに耳を傾けるんだ。なかなかうまくはいかないだろう。それはそうだ、どこに止まればいいか、わかりゃしないんだもの。だけど、「おなじ」でもなく「ちがう」でもない、中途半端でヘンテコリンな場所に立ち止まってみないかぎり、私たちは誰とも話ができない。

うん、そうか? そうなのか? そんな声も聞こえてくる。いや、もしかしたら本当に「ぜんぶおなじ!」かもしれないじゃないかって? あるいは本当に「ぜんぶちがう!」かもしれないじゃないかって? そうだねえ、それをロジカルに否定することは誰にもできないだろう。だけどやっぱり私は、そう開き直るのではなく、中途半端なところに止まった「ほうがいい」ように思えてならない。いや、止まりたいと思う。

なぜって、私たちは――生きているからだ!


生きているってことは、なぜかいまここに生きているってことだ。1000年前でも、1000年後でもなく、なぜかいま生きている。どこか別の地ではなく、ここに生きていて、なぜかこの本のこのページを読んでいる。それってやばくないか。そしてなによりやばいのは、なぜかいま生きているということは、いつか死ぬということだ(どう考えてもやばい!)。

つまり、手短にいって、私たちには意味不明な足枷があって(なぜかいまここにいて)、意味不明なタイムリミットがある(なぜかいつか死ぬ)。世界の終焉は見届けられないし、攻略本で答え合わせはできない。100年後に開発される超最強のコンピュータだとか、別の世界線にいたかもしれない超天才だとかが、世界の秘密を解き明かすのなんて待ってられないのだ。だったら、私はあなたとおしゃべりするしかない。

もちろん、あなたは私となんかしゃべりたくないかもしれないし、いうまでもなく、じっさいに私(という特定の一個人)とはしゃべらなくてもいい。けれど少なくとも、あなたはあなたがいない双子宇宙には飛べないし、あなたがいない遠い時代にも飛べない。

あなたはこのかぎられた<時-空>の中で「今日の答え」や「明日の答え」を提出することしか許されない。たまには白紙解答でもいいよ、だけど死ぬまで白紙解答を続けるのだろうか。死んだって、誰も答えを教えてくれるわけじゃないんだぜ。

あほらしいかもしれないけれど、だから私は中途半端に生きていきたいと思う。一日一日、「おなじ」と「ちがう」に挟まれた意味不明な中間地点を探しにいって、そこで誰かと話ができるか試したい。今日がダメなら、明日はまた別の場所で、そうやって「時間のあるかぎり」。



この本は「概念」を編む文芸誌なのに、いっこうに「概念」の話が出てこない、と思われているかもしれない。たとえば、その「中途半端な場所」のひとつひとつが、「概念」だったり、「概念のつながり」だったりするんだ。

「読書会」って堅苦しそう、「家事」ってめんどくさいよね、「ナンパ」とかキモい、「政治」はお偉いさんがやってるやつ。私たちはそうやってもなんでもかんでも勝手に「おなじ」にして、よく知らない「ちがう」ものとして遠くに置くことがある。そこに「ちょっと待った!」と割って入るのが『あみめでぃあ』で、もっとその「あいだ」を探してみようぜ、とお節介をいう文芸誌だということだ。概念を投げ合って離れていくのではなく、概念を介してつながっていく、そういうことを私たちは目指している。

たしかにあなたは「自傷」なんてしたことなくて、「家出」は隣のなんとかちゃんの話で、「スポーツカー」には興味ゼロで、「法」や「教育」ってむずかしいだけだと思っているかもしれない。だけど、だけど、そうじゃないんだ。誰かが「自傷」とか「家出」とか「スポーツカー」の話をしているとき、それはあなたが「おなじ」と「ちがう」で倉庫の奥に押しこんだものじゃなくって、あなたがしょっちゅう考えている――だけどたまたまその呼び方をしていなかった――もののことなのかもしれない。知ってるつもりのそれとは少し「ちがう」ものかもしれなくて、知らないとはいえない程度に「おなじ」ものかもしれない。

みんなで概念を持ち寄って、今日はどこにブレーキをかけるかって考えよう。そこにまた新たな概念が姿を現す。あなたが野球をしたくて、私がサッカーボールしか持っていなかったとしても、子どものころならきっとキックベースをしただろう。そういう、ごくごくありふれた、「概念と概念のあいだ」――この本を読み進めながら、そういうものをあなたにも探してほしい。


さて、前置きはこのくらいにして、そろそろ旅をはじめよう。私たちも勝手気ままに止まるけど、あなたもブレーキをかけたくなったら止めてほしい。フライングで止まったり、止まり損ねたりして、意味不明なところで停車して、理不尽に途中下車させられて、そこにあるものを探しに探して、そこから見える風景のことをしゃべり尽くしたら、また次の概念を目指そう。

それでは、出発。
急ブレーキをかける運転手もいるから、シートベルトは忘れずに。